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2011/09/29

梅津寺に秋山好古、真之兄弟の銅像を訪ねたのは・・

昨年の10月6日でした。
小学校の「読み聞かせ」の見学をさせてもらった帰路でした。

NHKドラマ「坂の上の雲・第2部」の放映が予告されていました。
きのう、二ヶ月ぶりの「読み聞かせ」を終えて、NHKのHPを覗いたら第三部のカウントダウン予告が始まっていました。




きのうは、久しぶりに「渡し舟」に乗って、「時の移ろいとは・・」などとシンミリとなったりしたのですが、時の流れは澱んでいるようで、しかし残酷に刻まれています。


秋山真之 像
広葉樹のもとで真之は何を思っているのでしょうか。


好古の像は、梅津寺の海を見下ろす場所に建てられています。


好古は、梅津寺の海に、空に何を見つめているんでしょう。

2011/09/20

【逍遥宇和島・チャリで行く】旧町名標柱を辿る(2)

いまも親しく愛称されている「六兵衛坂」も、「裡町」の小字だった・・
なんども登場している、この写真から続きを開始です。


写真を撮ったのは、先の8月26日。
Facebook友達の優子さんにお会いして、貴重なお話を伺いました(もう一つの六兵衛坂物語)。

しかし当日は、旧町名・裡町」の標柱に出会えませんでした。
亡父の語りの中に、辰野川の西岸筋を裡町と印象しすぎていたせいかも知れません。

前置きが長くなりますが、語りは次の一節です。

「川沿いに、傘屋さんがあって、渋の匂いが好きだった」

小学校への通学路だったのでしょうか。
生前にボソッと呟いたことがありました。
この二月に、亡父の仕舞に除籍謄本をとった時、生地が裡町であることを知りましたが

閑話休題
きょう、9/19旧町名標柱辿りの一番の目標は「裡町(うらまち)」です。

アーケード商店街を走りました。
この周辺には、なつかしい旧町名がたくさんあります。


【旧町名・袋町(ふくろまち)】


商店街と南予文化会館前を東(写真の右手方向。)へ走る道路との交叉点にありました。

旧・袋町の範囲

旧町名の由来は次の通りです。

袋町(ふくろまち)


 藩政時代、追手通・堅新町・本町と城堀に囲まれ、袋のように行き止まりになっていたので 
この名がついたといわれている。


お城山は目の前に見えます。




==

旧・袋町の標柱から東へ進むと、「旧・本町」の標柱がありました。


【旧町名・本町(ほんまち)】





旧・本町の範囲
町名の由来は次の通り記されています。

本町(ほんまち)


 旧藩時代、城下の町屋の中心で一丁目から五丁目まであった。
「本」とは根本の意で、商業地の中核として発展した。


旧・本町標柱から城山方を
==

東へ進むと、すぐに辰野川を渡る「丸穂橋」へ出ます。
ここまで来ると、方向音痴の私も直感出来ました。裡町は、近くだ!

ありました(^O^)/

【旧町名・裡町(うらまち)】



旧・裡町の範囲と、名の由来は次のように刻まれています。

旧・裡町の範囲
裡町(うらまち)


 裏町とも書く。
 本町に対して裏の町という意味で、旧藩時代には北の番所が置かれていた。
一丁目から五丁目まであり、小字の六兵衛坂は通称として現在も残っている。


標柱から城山方(西)の景。




長い営みが刻まれた町名・・


名前は消されても記憶は残ります。


   いや、遺さなければいけない。忘れてはいけないモノがある。

しばし佇み、煙草を一服させてもらいました。


===
旧・裡町の標柱から東へすこし行くと、青い橋、丸穂橋(まるほはし)に出ます。

西方を見ると、お城山を見ることができます。


南方、辰野川の上流両岸が、旧北町。


西岸は桜並木になっています。

丸穂橋の辺り
このあとは、下流方へと標柱を求めてチャリを走らせたのですが、レポは次回と云うことにいたします。

【逍遥宇和島・チャリで行く】旧町名の標柱を辿る(1)

宇和島市内の町名が可なり大きく変更されたのは、高校を卒業したS41だったと記憶してます。

宇和島の家のある薬研堀も佐伯町2丁目に改称されました。
















行政上の効率化などの要因があったのでしょうが、新町名に、(なんで?)と頭を捻ったものがあったような、そんな記憶があります。そして、
なにか大切なモノが薄れてしまっていくような・・そんな思いも。

【旧町名・薬研堀(やげんぼり)】

道路向かいは天赦園

標柱には、旧町の範囲、名の由来が刻まれています。

旧・薬研堀の範囲

標柱から西方を。

由来には次のように記されています。

薬研堀(やげんぼり)


 旧藩時代、浜御殿の南に位置するこの地には堀や馬場があった。
その堀や馬場が薬研に似ていたので  この名がついたといわれている。


==


標柱から西方、小さく見える青信号はR56・文教町。
右手(北)に城南中学校。南、左手に明倫小学校。
まっすぐ行くと、宇和島南中等教育学校。

北方向にはお城山が望めます。





【旧町名・富澤町(とみざわちょう)】

神田川の北河岸
佐伯町1丁目から東へ。古い家並に瀟洒な建て物がならぶ住宅地。
神田川が見えてくるところに標柱が建てられています。
「勧進橋」から少し下流方になります。

夫婦でしょうか、恋人同士でしょうか、ペアの鴨が游んでいました。















旧・富澤町の範囲
町名の由来には次のように記されています。

富澤町(とみざわちょう)


 旧藩時代、御典医冨澤氏が居住していたので この名がついたといわれている。
かつてシーボルトの娘イネが、村田蔵六の指導を受けるため居住した町ともいわれている。

==

かんばらどおり(鎌原通り)は、この辺じゃなかったかな・・
大橋通り大石町は・・と歩きまわりましたが、きょう(9/19)は標柱に出合えませんでした。

現在の京町から北方、お城山を。
「なかのちょうの教会」も見えます。
なかのちょう、広小路・・。


《なかのちょう の教会》
正式名称は、「日本キリスト教団 宇和島中町教会」。
なかのちょう の教会》と書いたのは、そう呼び親しんでいたことが印象されているからです。
山間の村から小3のときに引っ越してきて、母の勧めで日曜学級に通うようになったとき、「なかのちょうの教会に行こうか」と言われたのが名を知った初めでした。

きょうまで、表記は「中ノ町」だと思いこんでいました(笑)が、標柱にはどう刻まれているのか、また歩きます。


すっかり様子も変った街並みを歩きながら、旧町名を口ずさむと、
うすれた記憶が彩色されてくるような、そんな感じがするんです。


さぁ、旧町名・裡町(うらまち)の標柱を探します。
と言うか、標柱に見つけてもらえるようチャリを走らせます(^^)/



2011/09/14

「唯の花(ゆいのはな)」星野富弘さんの詩

花は唯、おのれの花を咲かす。 【ゆいの花・ただばな】

フッと惹かれた草花の写真を、Facebookのアルバム にアップしています。

先日、こんなコメントをいただきました。

これらの写真は星野富弘さんが、描きそうなお花ですね。

こんなレスをお返ししました。

わぉ~~♪ >星野富弘さんが、描きそうなお花ですね。
照れくさいけど、うれしいですね。ありがとう♪

文字どおりに嬉しかったですから(笑)

今朝、このレスに二個目の「いいね!」をいただきました。
これも本当にうれしい「いいね」です(^^)




星野 富弘さん



こちらのプロフィールをご覧ください。


このような高名な星野さんの詩画を思い浮かべていただけたとしたら、これは感激なんてもんではありませよね(笑)



わたしが星野富弘さんを知ったのは、この五月のことです。
mixi日記にこんなことを書きました。


”十薬の花”のこと等々
おばあさんは、これはお茶にして飲むと身体に良いんだと言って 
だから「十の薬」じゅうやくなんだと教えてくれました。 

そして、母さんはこんなこと言っていた・・・ 
「これは、クルスさまの花だよ。」 
そう云って、芳しく匂いながら 

「十薬の花は、この真ん中の黄色い粒々 
花のようにみえる白い4枚は、それを慈しんでいる守っているんだよ」 

・・・そんな記憶が朧にあるのですが 

文献か何かで読んだシーンが刷り込まれているような気もするのですが 

ただ、 
「ドクダミの花」と呼んだことのないのは確かです。 



こんなコメントをいただきました。

「十薬の花」という呼び方 
私は初めて知りました。 

本当に、ドクダミと呼ばれるのは気の毒なほど 
可憐な花を咲かせますよね。 

十薬の花… 


>「これは、クルスさまの花だよ。」 

この言葉を聞いて、星野富弘さんの詩を思い出しました。 
(詩画集「風の旅」より、どくだみ) 

道の隅で 
歩く人の足元を見上げ 
ひっそりと生きていた 

いつかおまえを必要とする人が 
あらわれるかのように 

おまえの花 
白い十字架に似ていた
 


===

お礼のレスを読み返したら、こう締め括っています。

唯の花”ただばな”は花を咲かす (misasi) 持続して向き合っていきます。 

唯、おのが花を咲かす花のようにありたい・・・いつも願い祈っているのにな~(>_<)・笑


==


   「どくだみ」

おまえを大切に
摘んでいくひとがいた
臭いといわれ
きらわれ者のおまえだったけれど
道の隅で
歩く人の足許を見上げ
ひっそりと生きていた
いつかおまえを必要とする人が
現れるのを待っていたかのように

おまえの花
白い十字架に似ていた


(星野 富弘)



   「やぶかんぞう」

いつか草が
風に揺れるのを見て
弱さを思った
今日
草が風に揺れるのを見て
強さを知った

(星野 富弘)

http://www.nsknet.or.jp/~kmg/hosino.htm



「やぶかんぞう」は「のかんぞう」の仲間です。



萱草(かんぞう)の花

野萱草の花

今朝の野萱草


   咲いて、咲いて、咲き続けます。

花は唯、おのれの花を咲かせます。


==

さ、絵本音読します!

2011/09/12

たますだれの花(朝散歩・9/12)

たますだれの花・・・

幼いころから見慣れた、この花の名前を昨日初めて確認しました。

確認と書いたのは、(たますだれの花・・)どこかで聞いた覚えもあるからです。


校庭の隅っこに
秘密の基地のあった神社の片隅に
そして道ばたに、庭さきに咲いてました。

一斉に咲いて、一斉に枯れてまた咲いて
踏みつけられても、2,3日もすればまたスッキリと咲いている。



きのう、ネットを繰っていたら、こんなステキな文章に出合えました。





鹿児島市にお住まいのまるこさんから、玉簾を詠んだ俳句とお便りを頂きました。


        『 待合の道端に咲く玉簾 』  まるこ


『玉簾って、とても原始的で生命力のあるイメージの花です。
戦後のベビーブームに生まれた私の幼少の頃の時代風景は、家の塀や道端にたくさん咲く玉簾と共にありました。


あの頃は今から思うとセピア色です。隣家との境界線の垣根は、板で打ちつけた粗末なものでした。経済成長で玉簾の姿も小さくなりましたが、境界を仕切るように白い花は並んでいました。』(まるこ)


団塊の世代が幼少の頃
は、田舎ではどこの家でも、玄関先や庭先、蔵の縁などに植えてあった花です。だから、物心ついた頃から視界の中にあって、花として意識するよりもむしろ、建物や道路や石垣や塀などの一部分としての存在だったように思います。


名前だって、まるこさんからお便りを頂くまで知らなかったのです。そして、この花の名前のことについて思いが至ることさえなかったのです。私にとって、玉簾はそんな花でした。


だから、玉簾の花が思い出させるのは、他の花の場合と違って、特定の光景や出来事ではなく、
あの頃の日常生活全般の光景や情景なのです。


調べてみると、南米ペルー原産のヒガンバナ科の花で、日本には明治の初期に園芸用として導入された花でした。花の白さを玉、葉の集まっている様子を簾(すだれ)に見立てて、玉簾と命名されたようです。


痩せた場所にも良く耐えて増え、花期の期間も長いので重宝(ちょうほう)されたのでしょう。物資の乏しかった当時は、花の種類も今ほど豊富ではありませんでした。そんな中で、日常の生活の風景に彩(あや)を添えてくれた花に違いありません。
玉簾は、「便りがある(Hear from you)」、「期待」、「潔白な愛」などと言った、私のこの花に対する今までの認識からはほとんど想像が付かない素敵な花言葉をもらっているではありませんか。





( http://washimo-web.jp/Report/Mag-Tamasudare.htm )


※太字は引用者

同じ時代を生きた(団塊第一世代)ものとして、シンパシーがあります。
共振、共感する原風景です。


そして、世代を越えて共有する(共有したい)風景もあるよ・・・そんなこと思った今日の朝散歩です。





2011/09/11

朝散歩・9/11(きょうは二百二十日)

暦は、「白露」
その初候「草露白し」と言うわけではないのですが

露草

葉に露を抱いてはいませんでした。

草露には未だ早いみたいです。
そういえば、きのう、大洲市は猛暑日を記録したとか

きょうも暑くなるのかな・・















”ねこじゃらし”とは~♪上手いね! 暑さなんて問題ない(^^)/

これは、”金平糖花”なんてどうだろう(^^)

ハルジオン?
ヒメジョオン?

可愛ければ・・

それでイイ



















あれ?あぶ?

明るさが増したとき、露草に
働きモンのアブ(たぶん・笑)


朝は来る!陽は上る!





きょうを咲く!

2011/09/03

馬目木大師 (宇和島市元結掛)

■馬目木大師へ。


より大きな地図で 馬目木大師 を表示


泰平寺さんの山門の西隣に、ご接待の「ゆらぎ庵」があり、壁面にこんな案内がされてます。






「馬目木大師」を訪ねてみました。
どう読むのか解りません。
案内にあるとおり約50mほど南へ歩くと左手に標識が。





その足許には小さな石碑もあります。



案内文をママ写します。

■馬目木大師(まめぎだいし)


九島鯨浦に弘法大師開祖と伝承される遍照山願成寺があり、
海を渡って九島まで行くのは参拝に不便なので
1631年、この地に移されました。
この角を曲がった先にあります。


個人さんの駐車場の敷地のよこに、かっての路地を思わせる道があり、そこを進むと視界が拡がり右奥手に公孫樹の木が・・そして、


公孫樹に守られるように小さなお堂があります。


馬目木大師堂です。


お堂の横手にあるお家の壁に、その名の由来が案内されていました。




■馬目木大師の由来  所在 元結掛


弘法大師が開かれたという九島鯨谷の願成寺は、四国霊場四十番の札所観自在寺(御荘平城)の奥の院であったが、離れ島にあるため順拝に不便であったので、寛永八年(一六三一)に元結掛の大師堂に移し、元結掛願成寺といった。
この寺は明治になってからさらに現在の国鉄駅の近くの竜光院に合併せられた。
この大師堂を馬目木大師といういわれは、弘法大師は鯨大師をつくられたものの、海を渡って九島までお札を納めに行くのはたいそう不便なので、宇和島の海岸にあった渡し場に遥拝所を設けられた。そしてこれに札をかけよといって、馬目木(ウバメガシ)の枝を立てておかれたら、いつしか根づいて葉がしげるようになったという。

元結掛の地名については、いつの頃かここで信仰心のあつい人が頭をそって仏道に入り、その髪を元結(まげをしばるひも)で この馬目木に掛けておいたことから「もとゆい木」といわれるようになったとも。 またこの土地は海岸通りで、通行人の元結が この馬目木の枝にひっかかるので名づけられたともいわれている。
現在もお堂と馬目木が残り、土地の人々の深い信仰の対象となっている。
と呼ばれ、人々の深い信仰の対象となっています。
(案内文ママ)




お堂の横に、若い馬目木(うばめがし)が植栽されています。



お堂の裏は急な勾配の法面になってますが、お堂を覆うような馬目木の巨木はお堂の歴史を物語っているようです。



枝間から空を見上げた時、はるか昔、小3の時に見上げた空と同じだ・・・
恐る恐るお堂の周りをうろついた日を思い出しましたが、当時、大師堂の由来はもちろんウバメガシの名も知ってはいませんでした。

そして、恥ずかしながら当時のママに62才になっているのですが、お大師様信仰の道が宇和島の地にもしっかりと踏まれていることを知ったことを素直に歓びたいなと。
これをご縁に、四国霊場八十八カ所にすこしでも触れてみたいな、そんな事を思った八月の帰省でした。

馬目木大師は、わたしの発心の場所などと(^^)/

=====



見てるだけで回った気分になってしまいそうですが(笑)
道標にリンクさせてもらいます。

宇和島観光協会「宇和島市観光ガイドWEBSITE」より

《禾に火と書いて「秋」・ たいふう》


■台風の番号と名前
ノロノロの第12号台風が各地に被害を及ぼしています。
進路周辺の方には、お見舞い申します。

ところで、第12号台風は「タラス」と名付けられているようです。
台風の上陸地点から「伊勢湾台風」「室戸台風」の名が辛い悲しい記憶残っていますが、さて置いて「タラス」っては何だ?
気象庁のHPにこんなのがありました。

気象庁では毎年1月1日以後,最も早く発生した台風を第1号とし,以後台風の発生順に番号を付けています。なお,一度発生した台風が衰えて「熱帯低気圧」になった後で再び発達して台風になった場合は同じ番号を付けます。
台風には従来,米国が英語名(人名)を付けていましたが,北西太平洋または南シナ海で発生する台風防災に関する各国の政府間組織である台風委員会(日本ほか14カ国等が加盟)は,平成12年(2000年)から,北西太平洋または南シナ海の領域で発生する台風には同領域内で用いられている固有の名前(加盟国などが提案した名前)をつけることになりました。
平成12年の台風第1号にカンボジアで「象」を意味する「ダムレイ」の名前が付けられ,以後,発生順にあらかじめ用意された140個の名前を順番に用いて,その後再び「ダムレイ」に戻ります。台風の年間発生数の平年値は25.6個ですので,おおむね5年間で台風の名前が一巡することになります。

(アンダーラインは引用者・misasi)

さて、
「タラス」はフィリピン国の命名で「鋭さ」の意味。
次に用意されているのが韓国命名の Noru(ノルー)、「のろ鹿」の意。
庶民感覚としては、このノロノロ台風・・・記号と言ってしまえばそれまでですが。
もちろん、国際間の情報共有への効果を否定するものでもありません。

ともかく、被害の少ないことを祈るばかりです。



■台風の語源・由来は?

古くは「野分け」と呼ばれていたことは、高校時代に古文の先生に教わったような・・


それが、台風と呼ばれるようになったのは明治時代に入ってからのようです。
台湾で呼ばれていた「大風(たいふーん)」が「Typhoon」と音写されたのち逆輸入されて颱風の字が充てられたの説も。
詳しくは> 語源由来事典 を。








■野分


高いものに同化するか低いものに同化するかが問題である。この問題を解釈しないでいたずらに同化するのは世のためにならぬ。自分から云えば一分いちぶんが立たぬ。
(夏目漱石 野分)
赤いアンダーラインを引いている。
高校生時分だったろうか
大学に進んだころだったか


どんな朱夏だったのか


禾に火と書いて「秋」


白秋よりも火の秋が好い


■9/3・七十二候の「禾実る」