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2011/11/20

「みなさんは、竜を見たことがありますか?」《人格と言う名の竜》




「みなさんは、竜を見たことがありますか?」
国王の問いに子供たちが戸惑っていると、国王は続けられた


「私は、竜を見たことがあります」
その一言に子供たちの中からどよめきが上った。

(以下、断片的に心に焼きついた国王の言葉をつなげてみました。)

竜は一人ひとりの心のなかにいます。
私たちは「人格という名の竜」を持っています。

竜は私たちみんなの心の中に居て、経験を食べて成長します。
年を重ねて経験を積み、
それぞれの心のなかにいる龍を大きく強く育てていくことがだいじなのです
そうして、私たちは日増しに強くなるのです。
どうか自分の竜を大きく素晴らしく育てていって欲しい

(涙があふれて書き留めることも出来なかったのですが、このようなお言葉だったと思います。)




竜は珠を持っていて、赤い火を吹くと・・

国王の言葉が、竜の噴出す赤い炎の珠に思えました。

無駄な経験はない。
経験を無駄にしてはいけない。
無駄なことはないんだ。


2011/11/10

「松山市誕生之地」円光寺(松山市湊町四丁目)

松山の繁華街、湊町銀天街に市駅(西)側から入ると右手に「円光寺」がある。
20年ほど前に、商店街組合かなにかの事業でタイムカプセルが埋設されるに立ち会ったことがあるが、その後は足を向けることもなかった。

きのうのお昼、ちょうど前を通ると人が結構出入りしていた。
ちょっと覗くとベンチ、灰皿が目に付いたので一服することにした。


弁当を広げて談笑されてるOLさんも。



■「松山市誕生之地」と刻まれた石碑



碑文を写す

明治二十二年十二月十五日 松山市誕生 湊町四丁目園光寺ニ事務所ガ
設置サレ、明治二十三年四月一日 松山市役所ガ寺内ニ開庁シタ、    
尚、明治二十四年十二月二十八日 出渕町一丁目庁舎ニ移転した、
大正十五年八月 園光寺門徒 御手洗忠孝ガ第七代市長に就任、
市政に貢献シタ、平成元年市制百年ニ当タリ、コノ碑ヲ建立ス、

施主 二神 元       園光寺十五世 郡 徳行 誌ス


平成元年の建立と云うことは、記憶にあるタイムカプセル埋設も市制百年にちなんだものだったのかもしれない・・
出渕町・・・ 記憶にない町名
ま、昭和24年の生まれ、初めて松山の街をあるいたのが小6の修学旅行・・大学の4年間・・
しかし、松山に家庭をもってからでも36年経ったんだよなぁ等思う。(11月9日)

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■松山市HP>文化財課>松山の歴史 から碑文の事項に関する記述を抜粋
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/kybunka/1182250_1047.html 

1889 明治22  4  「市制」施行で松山市誕生。全国で39番目の市。人口32916人
              市制施行により、事務取扱所を湊町4丁目円光寺内に設置する

1890 明治23  12  市役所が開庁する

1891 明治24  12  市役所、湊町円光寺から出淵町1丁目の新庁舎に移転する

1926 大正15    8  御手洗忠孝、第7代松山市長に就任



1989 平成元  11  市制100周年記念式典を挙行する
               第1回坊っちゃん文学賞、1386点の応募の中から大賞に月本裕「キャッチ」を決める
                 市、『松山の歴史』(初版)を発刊する

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■いでぶちまち【出淵町】愛媛県:松山市/松山城下-日本歴史地名大系

[現]松山市三番町五―六丁目付近 松山城下町の南部に位置し、南堀端町に平行して東西に通ずる町筋。東は三番町、西は萱町、南は花園町、北は南堀端町に接する。初め同心町とよばれていたことは、寛文―天和年間( ...

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平成元年、松山市制100周年に当り碑を築いていたとき
ぼくは、たしかに此処にいた・・
園光寺の標柱もあったと記憶しているが今日は見ることが出来なかった

ただ緑板の黄色い文字は活き活きと力強かった


先さんは存知あげないが、お父さんのことを懐かしく思い出した。
もう何十年もお会いしていないが、すばらしいお仕事を積み上げておられるだろうな、そう教えてもらえた黄色い文字である。

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ゆるりんでも歩き続けよう




足跡を刻もう




(11月10日 みさし・記す)

2011/11/06

10/30夜 愛媛県松山市『おとうさんといっしょ』

新築された松山市三津浜支所で


マザーズ・トントンのメンバーであるKさん手描きのポスター



ポスターに紹介されている、あきらちゃん&ラーメンちゃん
「あそびうたコンサート」で全国を駆け巡られておられます。

当日のことを、あきらちゃんが ブログ「あそびうたステージ報告」 に、次のように書かれています。



===10/30夜 愛媛県松山市『おとうさんといっしょ』===

10/30 18:00~19:30愛媛県松山市地域交流センターであきらちゃん&ラーメンちゃんコンサートがありました。三津&宮前&高浜地区のみなさんです。


タイトルは『おとうさんといっしょ!』いい企画です。


公民館の館長はじめ、主事のみなさん、盛り上げ隊として支援してくれた『絵本やコッコサン松山店』えっちゃん店長、子育て支援サークル『ママーズ*トントン』のみなさん(おじいちゃもいましたが(^-^;)!そして、松山の子どもたち!ありがとうございました~。

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紹介していただいている、おじいちゃんが、ジジーズ*トントンのミサシこと私です(^-^;)が、さておきまして、当日の様子を写真で振り返ってみます。

■16時50分会場に到着。舞台で音合わせ中の男性がお一人。



■音合わせをされていたのが、あきらちゃんで、ラーメンちゃんも加わって進行の説明を受ける。
きょうの任務が」盛り上げ隊であることを初めて知る(笑)

要諦は、参加者みな対等と云うこと(子供だから、大人、親だからは考慮しない)にあると理解した。
(まじめに聴いていたので写真はありません・^^

■開会予定(18時)の2,3分前
生憎の雨で心配された出足も、用意した椅子を増やすほどに。


でも、皆さん顔つきが少し硬い感じ。とくにお父さん。



■開会

イヴェントの主催は公民館。「親子ふれあい教室」であると。




■あきらちゃん&ラーメンちゃん 登場~~






軽妙な話芸に笑いは起きるが、やはり硬い感じ。とくにお父さん。


あなたは何月生まれですか~♪
○月のひとは、手を挙げてくださ~い♪





表情が柔らかくなってきた^^
子供が大喜びする姿に頬も緩む

踊る主事さん



子供、お母さんに大受け
お父さんは・・ 俺だって踊れるぜ・・ そんな気持ちを引き出せた感じもする

「それじゃ。椅子をかたずけること。・・カクって言うのかな?」
このタイミングは絶妙

事前の情報収集はお見事である
こちらでは椅子、机を移動さすことを「かく」という。

みんなが、椅子を「かく」。共同作業と言ってよい。

「それじゃ、誕生日の月を言うから、手を挙げて指で教えてくれますか?
そして、おんなじ月の人がグループになりましょうか」・・

1月生まれの私は、よし!と身構えたが、最初に呼ばれたのは違う月。
これも上手い演出と歓心。
みなの意識が、「つぎは○月かな」に集中している。
顔も柔らかに微笑んで



続いて、誕生月ごとのグループを壇上に誘う。
「○月生まれのかたで~す。おめでとうございま~す。」
間の取り方は、やはりプロ

みんなが主役の顔になって来ている^^


☆☆クライマックスへ

きょうのメインは、タイトル「おとうさんといっしょ」に沿ったもので、おとうさんに舞台に立ってもらうこと。

進行の中でおとうさんGを別室に移ってもらうよう「提案」をしますからと、事前の打ち合わせで聞かされていた。

「こども達から、お父さんへ踊りをプレゼントしますから
お父さんも、子供達にお礼の踊りをお願いします。
踊りは、ラーメンちゃんが隣の部屋で教えます~」

じじとん・みさしの主務はココゾと、お父さんの肩越しに
「ひとつ踊りに挑戦させてもらいますか♪」

部屋を出るときはモジョモジって感じのお父さんも別室の特訓にはワクワク顔に。
わたしも特訓中なので写真ありません^^

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子供達からお父さんへ








お父さんから、子供達へ

こちらは 右の手
こちらは 左手

右手と左手を くっつけて~♪

ラーメンちゃんの歌に合わせて踊るお父さん
ジィちゃんも踊りましたよ♪

だから、踊るお父さんの顔を直接見ることは出来ません。

でも、子供達、お母さんの顔に演壇で踊ってるお父さんの顔が映し出されていました。
左右を間違えながら、すこしギコチなくても一生懸命なお父さんの顔を反照さす素適な笑顔が輝いていました。

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あきらちゃんのブログにお礼のコメント書きました。

おはようございます。
ジィちゃんトントン、じじトン"みさしです^^
昨日は本当に、ありがとうございました。
ラーメン体操のあと、楽屋で掛けていただいた「ありがとうございます」のお父さんの声に、泣いてしまいました。
お父さん、お母さん、そして子達の笑顔は、同じ場を共有している。共振している。その感動の顕われだと実感させていただきました。ほんとうに、ありがとうございます。
ますますご健勝にご活躍!よろしくお願いいたします。

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あきらちゃんのブログを覗いたら、お父さんの熱演ぶりがYouTubeにアップされてました。


♪シアワセきぶん あきらちゃんラーメンちゃん愛媛松山お父ちゃん

2011/11/05

せんばが峠から成川へ

■私の生まれたのは近永町奈良。(現・鬼北町)
住所表示は奈良XXX番地であったが、小字の成川で呼ぶのが普通で、山奥であるが北川、牛の川と川の付く地名が多い。水分の地名もある。
成川渓谷の名は景勝地としても親しまれている。

成川には小学3年にあがる春までを過ごした。
その後、足は遠のいた。
血縁がないのが大きな理由だが、宇和島市から水分、成川、近永町(その後、広見町、鬼北町となる。)への道路事情が厳しかったことがある。成川にバスの通ったののも私が幼稚園に入った頃だったと思う。

厳しさの象徴として印象されている地名が、「せんばが峠」「鮎返」である。
「せんばが峠」の名は、千もの曲がりくねった峠道に由来するのではと思えるものだった。
「鮎返」は字句の通り、遡上する鮎が引き返さざるを得ない急峻な地点と云うことだ。

■そんな道路も現在はこんな感じに。


宇和島市街(手前)から鬼北町方向。国道320号線。
須賀川の支流、”正し川”に架かる”新折付橋”(昭和50年6月架設)
橋を渡り鬼北町方に少し進めば鮎返隧道があります。(昭和54年竣工)

昭和50年は結婚の年。
牛の川まで仲人さんをお迎えに行って、嫁宅まで向かったのですが、新橋は渡ったことになります・・
隧道はなかったんだな・・・ 記憶が残っていません^^;;

この後も、この道を走ったことがないと云うことはありません。
それなのに、いまだに急峻な「せんばが峠」「鮎返」が心象にあるのは・・

初めて車を留めて「レンズ」を覗いてみました。


橋から正し川の上流方を

橋から須賀川を。下方に須賀川ダム湖面が。
朝方の雨靄は大分薄れてきていましたが
心象を覆うモヤリは・・拭いきれません。


■成川の生家の西の畑に柿の木がありました。
生家を購入していただいた方が、町にでられたあと田舎暮らしを望まれた方にお貸ししていると云うのは耳にし、道路から覗う外観に造作の跡を見ることもあったのですが、柿の木はずっと変わらない姿でした。

その姿を見ると、成川に帰ってきたと言う感慨めいたものをもつこともありました。幼い子供たちに「あの柿の木でよく遊んだんだよ」そんな話をしたこともあります。
と言って、深い思い出が刻まれているというものでもないんですが。


きょう初めて車を留めて様子を見せてもらいました。




見上げるような巨木の印象だったのですが、存外に小ぶりに思えました。
やはり8歳の眼ゆえのものなのかな、それとも55年経ったんだから巨木は朽ちて二代目の木になったのかな、そんなことを思いながら裏に回ると、雨戸も畳も取り外されて無住の廃屋となっているのが一目瞭然でした。

■庭木もブッシュのように



と言って、
55年の歳月が過ぎているんだから・それ以上の感慨、感傷はなかったのですが

■一輪咲いたサザンカの花

・・・
まだ硬い蕾はたくさん付けていますが一輪だけ、まるで来訪者を迎えるように
すこし以上に感傷っぽくなってしまいました。

逃げ出したい気分になって畑にもどったら

■カタバミが黄色い花を。


■名も知らぬ紅い花。


無住の、鍬の入らぬ畑に健気に咲く
いや、無住、鍬の入らぬ畑だからこそ咲ききることができるのかも・・

また逃げ出そうとしたとき


講釈は無用だよ


花は唯、おのが花を咲かせる


その無心さが人の心を打つんじゃないかな


人は唯、おのが命を咲かしきることじゃないかな


そんな柿の声が聞こえてきた。



ひとつ捥いで齧ってみた。


昔と同じ渋柿だった


そのことが嬉しかった。


成川にて、手帳にこんなことを書いていたのを写す。




2011/11/03

きょうは「文化」の日

きょうはなぜ「文化」の日?



今日は文化の日。そもそも明治天皇の誕生日で、新憲法公布の日だ。明治天皇や新憲法って、文化なのか。科学分野でも文化の日であるらしい。「何でもありの、あいまいな『文化の日』を捜査してほしい」。隊長の厳命で取材を始めた。
 文化の日は、48年の「祝日法」制定時から続く祝日。11月3日は明治天皇の誕生日で、戦前は明治節だった。どんな経緯で明治節が文化の日に生まれ変わったのか。衆議院・内閣調査室を訪ねた。
 衆参両院では、その名も「文化委員会」で法制定の議論がなされたという。この休日を、46年11月3日に公布された新憲法で祝うべきか、もともとの明治天皇や明治時代で記念すべきか、議員の意見も割れた。
 参院側は11月3日は「憲法記念日」とする考えだったが、衆院側が「憲法記念日は施行の5月3日」と主張。結局、参院側も同調し、文化の日とする方向で決した。えっ? 11月3日は「文化」とどう関連するの。
 山本勇造・参院文化委員長(作家の山本有三)は当時、11月3日をこう理由づけた。戦争放棄を盛り込んだ新憲法公布の日で忘れがたく、「『自由と平和を愛し、文化をすすめる』、そういう『文化の日』ということに我々は決めた」。やや強引。自由や平和の日でもよかったのに。でも、この理由が今も国の説明に引き継がれている。
    ◇
 文化の日は、全国で様々な文化関連の催しが開かれる。皇居では、文化勲章の親授式。受章者は、主に文化功労者の中の「文化ノ発達ニ関シ勲績卓絶ナル者」(文化勲章令)のおおむね5人。識者10人からなる文化功労者選考分科会の意見を文部科学相が聞き、首相に推薦する。
 37年の1回目は、4月授与だった。文化の日に贈るようになったのは戦後から。よく考えると、文化の勲章なのに、第1回から日本画家の横山大観ら文化人と並び、本多光太郎や長岡半太郎ら世界的に著名な科学者がいた。科学って文化?
待てよ。ギリシャ、ローマの昔から、西洋で優れた文化人は優れた科学者でもあった。武蔵野美術大学の柏木博教授(近代デザイン史)は、レオナルド・ダビンチなどの名前を挙げ、「欧州で科学と芸術は融合していた。彼らにとってはすべてアートでした」。確かに、英語の「Art」には芸術・美術、技術の意味が含まれる。
 昭和初期の受章者は、明治に学問を身につけた世代。「お雇い外国人」の影響を受けていた。当時、芸術、科学を「文化」に包括する西洋的な理解が、選ぶ側、贈られる側の共通の了解だったのかもしれない。
    ◇
 実は文化の日、もう一つある。「関西文化の日」。毎年11月の第3土曜と日曜が基本だが、今年は14、15日。両日を中心に、関西2府8県内の美術館や博物館など402施設の入館料が、主に常設展で無料になる。
 03年、当時の河合隼雄文化庁長官が呼びかけた「関西元気文化圏構想」の一環としてスタート。4年前の参加234施設、来館者計22万6千人から、昨年は357施設、計31万7千人に増加。もうひとつの「文化の日」もがんばっている。
 今年、政権交代で日本の文化政策も転換期を迎えた。鳩山政権は前政権が決めた「国立メディア芸術総合センター(仮称)」は「国営マンガ喫茶」で税金の無駄遣いの象徴だとして、建設中止を決定。首相の所信表明で文化政策への具体的言及はほとんどなかったといっていい。
 東京大学の小林真理准教授(文化政策)は「民主党の文化政策は、まだ分からない。伝統文化の保存や振興も大切だが、メディア芸術のような新しい試みをする人たちを支援することも、同じように重要だ」と指摘する。
 衆院側の文化委員会委員、受田新吉は、著書『国民の祝日と余暇』(75年)に「文化の日一日をすごすだけで文化が進むわけではない。一年中のあらゆる日が文化を進める一日であり、その結晶点ともなるべきものが、文化の日である」と記した。
 『日本文化論の系譜』の著者、大久保喬樹・東京女子大教授(比較文化)は「日本人くらい文化についてあれこれ考えるのが好きな国民はない」と言う。
 長い戦争が終わり、自由と平和が訪れた当時、日本の人々は文化を発展させようと、やや強引だが11月3日を選んでいたのだ。「隊長! 一年中は無理としても今日は美術館や科学館に行き、自由と平和のありがたさを再確認しましょう!」
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以上は、asahi.com(朝日新聞社)2009.11.3 を、全文、転載。



朝日新聞さんらしい、と言えば朝日新聞さんらしい構成、纏めだと感心いたしました。と、言って
今日は美術館や科学館に行き、自由と平和のありがたさを再確認しましょう!」の気分になることは出来ませんが(笑)



2011/11/01

【一宮さま(2)】旧・大工町に保存伝承されている”猿田彦ねり”(2)

【一宮様(1)】旧・大工町に保存伝承されている”猿田彦ねり”(1) 
に、大本敬久さん(愛媛県文化歴史博物館 専門学芸員)から次のコメントをいただきました。


猿田彦、伊達博が持っている江戸時代の絵巻にも描かれています。巫女の舞は他地域が昭和10年代に全国画一の浦安の舞を取り入れて古い巫女舞が駆逐されたのですが、大工町は古い巫女舞を受け継いでいる印象があります。近隣に類例がない巫女舞です。牛鬼や鹿踊りが注目されがちですが、大工町の練りは貴重だと思います。




巫女舞の写真を動画風にしたものです。(10月29日)