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2012/07/30

Farmer・misasi日誌 対症を積み重ねよう

前回の作業は午前9時に畑に立つと言う大失態
師匠の和さんはこう仰った 「昨日は泊っていたの?」
炎暑の日の朝の9時から作業を始めるなど考えのうちにないと言うこと、
この時季、9時は朝の畑作業を終える時分であるのは、しごく当然なことなのだ。

そんなことで、29日は5時前に松山を出発、6時に畑に立つ。


朝靄が深くひんやりと、円滑な作業を頭に描き耕運機を始動させて畑に。そしてゴム車輪をロータリに付け替える。
再始動してイザ!

しかしロータリが土を噛まない・・・
畑の土は水気ひとつなくカラカラ状態でひび割れだ・・
炎暑続きの天候が恨めしく
山沿いの午後3時ころには連日スコールのような夕立が来るというのに、ここだけ降らないのかななんて詰まらないことさえ思ったりする。

イライラしてしまったのか
始動グリップの紐が千切れてしまった(><)

倉庫へもどって工具類を見つくろう
ラチェットハンドルを使って、エンジン部分からリコイルを外す。


こう書くと、機械に強そうだけど、自他共に認める機械オンチ。ラチェットハンドルも名前だけ知っていただけで使うのは初めて(笑)
これがカムと言うものか、上手い具合に作ってあるなぁなんて感心していたら、バネが外れ飛びリコイルはバラバラに(泣き笑)

野村のホンダは、この時刻には開いてないだろうし・・日曜だし・・・



「切り込みがあるじゃろ」

「紐を抜いて、そいつに引っかけて巻いて引っ張ってみい」

と、師匠の声が!!


「そいで、紐はの。 ハンドルにこうやっての」 と、わざわざ寄って来てくれて、ぼくの手から紐を取って自らの手で掛けてくれた。



師匠も、こんな事態にタビタビ出合ったんだろう。
切れた紐を結んでフックにかけて回したことも、もしかしたら紐を置き忘れて慌てたことがあったのかもしれない・・
そんな経験から、本当の意味での知恵を手の皺に顔の皺に刻みこんできたのだろうと思う。

改めてフックを見つめ、ハンドルに掛けてもらった紐を見つめてそう思った。


対症的・・ネガティブに使用される言葉だけれど、対症を積み重ねることが原初の生き方だと思う。

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始動グリップもリコイルも今日初めて知った部品の名前。
始動グリップはエンジンを掛ける紐、リコイルはその紐がバネ仕掛けで上手い具合に収まる部分と言うのが、この日誌を書くまでの認識(笑)

もう一つ、ロータリが土に噛まなかった理由を告白
左右を逆に装着してたため!
書きながら、それが何故逆なのか分かんない。
いまは、これでは逆だと思うんだけどのロータリ羽の方向で装着するしかないけれど!(笑)


これが生長の一歩だよ!と微笑みながらペンをおくことにします^^



2012/07/13

遠野を歩く(1) 大工町(寺町)

遠野


(参考資料)ふるさと遠野 第5章 江戸時代前半の遠野 より

城下町の整備

横田城を中心にした遠野の新しい城下町もしだいに整えられた。横田城は、カヤぶき屋根に白壁の「大館」であった。城のある鍋倉山をとり囲むようにして屋敷町がつくられた。
城の西側には、桜馬場が設けられた。そして、元禄時代には、城下に入る街道の入り口に下級武士たちの住む上組町・中組町・下組町の同心町がおかれ、町の警備にあたった。また、来内川は、自然の堀の役割をはたした。
そして、領内の市場が城下町に集められて、武士の屋敷町(元町、坂下町、砂場町、石倉町)の外側六日町・新町・一日市町が置かれ、一六市が開かれた。やがて、石町(穀町)・裏町(仲町)がつくられた。大工町は、職人町であった。武家屋敷と町人町の間には、高札場が置かれ、藩からの命令がかかげられた。町人町の外側には、寺院や神社がおかれた。


(太字は引用者)

〔城下町遠野の記録〕
1681年(延宝9)年に幕府の巡検があったときの記録がある。それによって遠野の町のようすがわかる。
 侍町 7丁 170人ほど ほかに歩行3~40人
 同心町 3丁 同心120人 寺院 10か所
 職人は具足屋1人、仕立屋1人、鉄砲屋1人、大工16人、とぎ師2人、木びき7人、鞍師7人、左官4人、さや師2人、染屋6軒、塗師2人
 町家 町数5丁 横丁5つ 家数237 人口 男1,003人 女889人 合計1,892人 馬368頭




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一度は行ってみたいなぁ
45年間、心の隅にあった。それが実現したのが昨年の11月30日の夕刻。
2日の朝には発たねばならぬ、急ぎ足。
その上、なんの予備知識もないまま・・・上に挙げた資料も今日読んだもの。
未整理の写真が未だ一千枚近く残っている。
資料を読ませてもらいながら、巡ったあとを辿ってみたい。

前掲の地図に行路などをプロットすると


茶色のラインが行路
大工町筋は地図に記されている町名に合致するので正確と思うが、大工町筋に平行に引いたラインは
遠野駅から南下一直線に城址の鍋倉山に道路が延びていたことから類推するライン。

黒色のラインはJR釜石線(類推)

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遠野駅前に降り立ったとき目に付いた標識に 大工町(寺町) 

故郷宇和島にも同じ 大工町の旧名があり、町名ではないが 寺町界隈 と呼ばれる一画があることが、遠野の町への親近感を増した。

翌朝、日の上がるのをまって 大工町へ。

整備された街区であった。南北に延びている。駅側(北)から南方へ歩く。


「大工町通り」の銘板・木製の街路灯

《遠野市街地の特徴》が記されている案内板。

古色あふれた通りを想い描いていたので拍子抜けの感じはあったが、落胆するとか失望とは違う。
冬の早朝の時刻で、広い道路を走る車もなく、行き交う人もなく、ゆったりとした時間をすごせた。

大工町通り


通りの中頃に 町名標識が建てられていた。

【大工町】


説明文中に  「中同心丁」と称し、お筒持同心が住んでいた。 ~!!
街角から着流し姿の昼行燈同心が!(笑)


とあれ、お筒持と言うなら、鉄砲隊であろうから、鍛冶屋も住んでいたであろう大工町に隣接していた処に住んでいたのだろうか・・などなど思いを巡らし歩いていたら何と!


【長柄組・中同心・持筒同心】と刻まれた石柱がヒッソリと立っていた。
「大工町」標柱の道路向かい。
(他一の面は、個人住宅の植栽に隠れていて見ることができなかった。)


長柄組と刻まれた石柱(南側)

「長柄組」 長柄の槍をもつ足軽たちの住むもこの辺りにあったのか

(西)通りに面して 中同心

持筒同心 (北側)







【大工町(寺町)】

町の西側には、(外敵への)防御を目的に寺社が集められたと、通りの案内板《遠野市街地の特徴》と記されている。
掲出した資料地図を見ると、(城山)鍋倉山の南側の西に寺院が連なって建てられている。
大工町通りに面して寺院に通じる横道があった。この辺りが江戸時代の遠野の西崖の地域であったのだろう。

大工町通り


萬福寺


萬福寺本堂

白泉山・萬福寺
































通りから本堂が見える。



写真の左角地に、こんな案内看板が


伝統の遠野町屋の建築様式・連子格子と彫刻





寺院へ進めば

手書きの大工町由緒

通りを少し入ると、江戸時代から明治、大正、昭和・・時の流れと、それを今に保存しようというここr幾層にも濃密に重なりあって感じることができた。


善明寺


善明寺本堂
















金光山・善明寺
















善明寺は、現在の大工町通りに面して案内板が建ててある。
本堂までの敷地は進入路、駐車場に整備され、本堂のまえに山門が新設(?)されている。

















(直截の感想、若干の違和感あり。)


善明寺入り口(案内板)を過ぎて通りを少し南進すると左右(東西)に道別れする。
ここが「大工町通り」の南端にあたるようだ。

南進して来た大工町通りを振りかえると

大工町通りを北方に見る。

東への道路は道幅も広く、整えられた施設が近く遠くに望むことができる。

天の邪鬼ではないが、西方への道へ。
住宅街区に入る道の感じ。時刻7時半を過ぎて通学生と出合う。

川に出合う。 
前掲資料に、自然の堀の役割をはたしたと記されている 來内川。

堀の役割をはたした來内川

写真の右手(南)に武家屋敷
左手(北)が、大工町など町民町であった。

当日の私の足は橋を進まず、川に沿った道を西下した。
來内川の次は 瑞応院を撮影していた。

あれ ここにもお寺さんが・・

進んだ道は参道ではなかったと記憶に残っているだけれど、砂利を敷いた敷地は整備を待っているようにも思えたり、
あれ、ここにもお寺さんがあるよ そんな感じで撮ったもの。

資料に地図に写真をプロットしつつ思うのは
やっぱり天の邪鬼、へそ曲がりなんだろうか、しかし、この性 悦ぶべしと(笑)




瑞応院


瑞応院本堂






鳳徳山・瑞応院





























参拝して帰路は来た道をとらず、砂利敷地の東方にへ。 人家の間に参道らしき路地が認められる。



町屋の路地裏・・蔵の白壁に琺瑯看板がひとつ・・・
充実を感ずる!




=== 続く ===






2012/07/10

星とタンポポ (金子みすゞ) ドラマ「金子みすゞ物語」感想のようなもの。

テレビ番組欄に
「金子みすゞ物語ーみんなちがって、みんないいー」(TBSドラマ特別企画)が目に付いたのでチャンネルを合わせてみた。以下、感想のようなもの。


ドラマのタイトルとなっている 「みんなちがって、みんないい」 は 『わたしと小鳥とすずと
のなかに綴られた最終節である。

わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。
すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。



詩を鑑賞する素養もなにもないが、作者の優しさのようなものが伝わってくる感じがする。
すべてを受け入れる包容力、そして自意識・・。
「みんなちがって、みんないい」
「みんなちがって、みんないい」
空っぽの身体のなかでリフレインされ、涙のようなものが流れてきた。


本ブログのタイトルを 『星とタンポポ』 としたのは、わたしが唯一暗唱している金子みすゞの詩であるということ。
何時のころ読んだのか、もはや判然ともしないけれど焼き付いているという事実・・
このことを大切にしなければならないのかと思う。
そして、詩の一字一句と向かいあわねばならないのかと思う。



青いお空のそこふかく、
 海の小石のそのように
 夜がくるまでしずんでる、
 昼のお星はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。

 ちってすがれたたんぽぽの、
 かわらのすきに、だァまって、
 春のくるまでかくれてる、
 つよいその根はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。


この5月3日に、山口県長門市にある 「金子みすゞ祈念館」 を訪ねたときの写真から。