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2012/10/31

「一宮神社(城川町魚成)秋祭り」 参考資料 【牛鬼・鹿】

  イ 一宮神社の秋祭り

 田中 通夫さん(東宇和郡城川町魚成 大正7年生まれ 81歳)
 城川町の秋祭りは、一応11月3日に統一されているが、神職の関係もあって神社によっては他の日に実施されているところもある。城川町魚成(旧魚成村)では、河内神社・三島神社・杉王神社は11月2日に、一宮神社・八幡神社・白王神社は11月3日に実施され、一宮神社と八幡神社では神幸式(しんこうしき)(お旅)が行われている。
 城川町魚成で一宮神社の氏子として生まれ育ち、宮総代や総務区長を務めるなどして長く祭りにかかわってきた田中さんに、一宮神社の秋祭りについての話を聞いた。
 「一宮神社の秋祭りには、事前に地区で実った作物を神社に持っていき、神様にお供えする風習があるんです。お供えする作物は決まっており、その割り当ては、それぞれの地区の実情を考慮して毎年総会で決められるんです(図表1-1-14参照)。
 各集落に割り当てられた作物は、区長さんが皆と相談して提出者を決めてますが、『わしとこにはダイコンができとるから出そう。』『わしとこはカブができとるから出そう。』という具合に皆の希望を聞いて決めるんです。わたしの住む蔭之地地区では、10月20日に山の神様の祭りがあって、その折に皆で相談して決めているんです。
 お供え物を神社に持っていく日は、祭りの前々日と決まっていました。昔は今のように道が奇麗でなかったんで、その日は朝から道つくりや幟立てなどをしてたんですが、お供え物はその折に各自が持って行きました。今は区長さんが取りまとめて持って行きます。そして祭りの前日になると、宮総代、区長、大警護(だいけいご)(お練り全般を指揮する役)が神社に集まり宵宮を行い、神事の後には直会もするんです。
 一宮神社の祭りを実際に執り行うのは、蔭之地、川向、中津川、町中、古市の5つの集落なんです。しかし、成穂(なるお)、今田(いまで)、男河内(おんがわち)(図表1-1-4参照)も祭りに加わり、昔から五つ鹿は男河内から出すことになっているんです。
 祭りの当日は、朝早くから関係者が集まって、神輿四つ太鼓(ヨイヤッサとも呼ぶ)を仕立てるなどの準備をするんです(写真1-1-36参照)。その間に親牛と子牛の2頭の牛鬼は、それぞれ別々に集落を回って家々の悪魔払いをし、五つ鹿の方も呼ばれた家々を回って踊ります。しかし、牛鬼や五つ鹿は、神事に間に合うように午後1時30分ころまでにはお宮に集まるんです。
 わたしの子供のころの牛鬼は、青年団がかいていました。親牛は古市・町中から、子牛は蔭之地・川向・中津川から出すことに決まっていました。今は青年も少なく高校生や中学生もかいています。神幸式での宮出しの順序は、鉄砲・鳥毛(とりげ)・相撲・鹿踊り・四つ太鼓・牛鬼・お成(なり)太鼓・銘旗(めいき)・神輿・御前(ごぜん)びつ・猿田彦(さるたひこ)・大警護決まっていました。お旅所は神社から約1,500mの所にある保育所ですが、そこまで皆で練って行くんです。
 この神幸式では、親子の牛鬼が向かい合ってトンネルを作り、神輿を送迎する儀式があるんです(写真1-1-37参照)。その儀式は、宮出しの時と途中1か所、お旅所の入り口で神輿をお迎えする時と、神輿をお送りする時の合計四回行うことになってます。ですから、牛鬼は途中で走ってお練りの先頭にならんといかんのです。
 お旅所では、神事が行われる間に子供たちの相撲が行われるんです。その後に五つ鹿踊りが披露され、牛鬼や四つ太鼓が練ってけんかなどをして(平成11年は行われなかった)、最後にもちまきがあり神幸式は終わるんです。
 牛鬼や四つ太鼓がけんかするのは、親牛と子牛と四つ太鼓はそれぞれの集落によって出しものが決められ、かき手が違っていたからなんです。牛鬼同士がぶつかりあったり、牛鬼と四つ太鼓がぶつかりあったりするんですが、酒を飲んでけんかをする人もいて、わたしも若いころに牛鬼をかいていて恐ろしかった記憶があります。お旅所で神輿をお送りしてからも牛鬼は一暴れしますが、その後は午前中に回り残した家々を回ってご祝儀を頂く『ご祝儀拾い』をします。家はすべてが平たんな所にあるとは限りませんので、山の上の方にある家などは直接に行けない所もあり、道から『祝いますぜ。』と言うて家に向かって頭を一回突っ込むんです。今の牛鬼は、軽トラックに積んで回っていますが、昔はすべてかいていたんで大変でした。」



ウ 牛鬼の修復

 橋本 清明さん(東宇和郡城川町魚成 昭和3年生まれ 71歳)
 城川町魚成の一宮神社の秋祭りには二頭の親子の牛鬼が登場して祭りを盛り上げる。牛鬼は南予地方の祭りに多く見られるものであるが、城川町の牛鬼は暴れ牛鬼で傷みも激しいという。その牛鬼の修復に長年かかわってきた橋本(乱東)さんに、修復作業の苦労話を聞いた。
 「わたしが牛鬼の修復にかかわりをもったのは昭和44年(1969年)ころからです。以前から修復にかかわっていた人から『お求えは器用だからわしの弟子として手伝ってくれや、わしは年取ったけん絵付けをようせんようになった。』と言うて頼まれ、引き受けたのが始まりなんです。初めは絵付けだけでしたが、最終的には骨組みなども教えてやるから後を継いでくれということで、結局今日まで修復にかかわることになったんです。
 主に修復しているのは、一宮神社の親牛と子牛ですが、修復には相当の費用もかかりますから毎年というわけにはいかんのです。だいたい10年ごとに修復しています。最近修復したのは平成10年でした。今回修復した牛鬼は今までで一番傷んでいました。よく傷むところは頭の部分なんです。牛鬼と牛鬼が激突してけんかをしたり、四つ太鼓との鉢合わせなどで傷むんです。昔は若い者も多くて牛鬼のかき手があふれとったんで、頭使(かしらつか)いには名手がなっていて、今のような牛鬼のかき方はしなかったんです。頭をいっぱい上にあげて頭を守っていたんです。最近は頭をひこずって上にようあげんのです。今はかき手も少ないうえに力もなく、頭を使う技量もないんで、傷みが早いんです。
 牛鬼はなんといっても頭の扱いが重要な役で、フキアゲ(吹上)と言うて、牛鬼を勇壮なかっこうに見せかけるために頭を上にすうっと一気にあげるんです。そのあげ方が難しいんです。あげ方がうまいと牛鬼の首が奇麗に膨らんで本物のウシのようになるんです。
 親牛と子牛の頭の大きさは大分違うんです。昔の大親牛(かつての親牛のこと)の頭は角の先からあごのところまで1m10cmくらいあったんです。大親牛の頭は重たいので、現在は今までの子牛を親牛にして、新たに軽くて小さい子牛を作ったんです。親牛にした頭は80cmぐらいはあります(写真1-1-38参照)。
 魚成の牛鬼の口は、最初から開いた形で作るんです。宇和島の牛鬼はけんかせずに練り歩くので、口をパクパクと動くように作られとるんです。こちらの牛鬼はけんかをするんで宇和島のような牛鬼だとすぐにあごが外れてしまうんです。
 宇和島近辺の牛鬼とこの辺の牛鬼は、面の形相が全然違うんです。こちらの牛鬼は、あごが固定していて顔の作りがのっぺらで実際のウシに近い形をしとるんです。どちらかというと宇和島の方は華麗で、こちらは野生的ということになりましょうか。
 頭の中は、なるべく軽くするためにキリやスギの木を使いますが、ヒノキは粘りがあるので薄い板にして耐久性が求められる肝心な箇所に部分的に使うんです。最近はしゃにむにけんかして頭棒(かしらぼう)(頭を支える棒)を差し込む所がよく傷むので、去年修復した牛鬼からはそこを一番薄い鉄板で作るようにしました。
 頭を修理する時は、一度は全部はずして分解してしまうんです。顔に張り付けている紙は泉貨紙(せんかし)(*34)という紙を野村町中筋(なかすじ)から従来は取り寄せて使っていたんですが、最近は内子町やその他からも取り寄せて使っています。紙は、はっては乾かしを繰り返して五分(約1.5cm)くらいの厚さになるまではっていくんです。その過程が大変なんです。顔全体に一回通り紙をはるのに3日くらいはかかるんで、紙を顔全体に全部はるだけでも最低1か月はかかります。はり上げたものはげんこつでたたいてすぐにしゃげる(つぶれる)ようだと駄目なんです。紙をはるのは、一枚の広い紙をぺ夕ぺ夕とはるようなわけにはいかず、顔の凸凹や湾曲に合わせて紙をちぎってはっていくんです。はさみで切った紙ははるとそこにガタ(段差)ができて色塗りが難しいんです。
 紙をはるのりは、昔はワラビの根をたたいてでんぷんを取り、もち米の粉と混ぜて作っていたころもあったんですが、最近は、よい市販ののりが出てるのでそれを使っています。色付けは特殊な塗料を使っていますが、一宮神社の牛鬼は黒色が基調で目の部分に一部赤色を使っているんです。結局、牛鬼の修復には、紙を奇麗にはりあげて、絵付けをするまでに最低3か月は十分かかるんです。」


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愛媛県生涯学習センター

「えひめの記憶」 - [『ふるさと愛媛学』調査報告書]


http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=1&P_SNO=9&P_FLG1=2&P_FLG2=1&P_FLG3=3&P_FLG4=4

2012/10/24

「蟻がいい 蟻になりたいと思った今日の空」

予讃線、松山・市坪間行違い線③工区

100トンクレーン車の迫力は流石だが、車体は存外に小振りな感じもする。




いっぱいに伸びたクレーンアームの存在感は圧倒的だ。

上り普通列車が入って来たのにも気付かないほどだった

アームに見惚れていた。






松山千春の「大空と大地の中で」歌詞が朧に千切れ千切れに浮かんできた

・・・・・






蟻がいい

大空を見上げる蟻になりたいと思った今日の空・・






2012/10/17

【明星の空】10月8日、月曜日。午前8時42分。日吉夢産地にて。


10月8日、月曜日。
5時に起床、前夜は悪ガキ連の飲み会があったにも拘わらずである。
魚成畑作業の支度を点検しいざバスセンターへ。

始発は6時40分・・野村病院前行きが入ってこない・・・
何で?
時刻表を見る。
□日・祝運休
きょうは月曜日・・

10月8日・体育の日・祝日~★

野村病院行き次便は11時55分・
次発バス「日吉」行きに乗車

「日吉夢産地」(道の駅)で降車







見上げた空は、落ち込んだ気持ちに打って変っての青空


日吉村は平成の合併で広見町と対等合併して鬼北町になったが
日吉村にはこんな歴史がある。
ひとつは「武左衛門一揆」
藩の圧政に農民が立ちあがり1万人にも達する大騒動となり、農民側の全面勝利となる。
全国に多くの農民一揆があったが他に類のない農民の勝鬨であったそうである。
寛政5年(1793年)のことである。
ひとつは日吉村出身の政治家井谷正吉の指導により「四国初のメーデー」が大正11年に、ここ日吉の地で行われた。
その場所は与謝野晶子によって「明星ケ丘」と命名され、昭和3年まで毎年メーデー集会が行われたという。

青空ばかりの日はない。
暗雲のむこうに青空を希求する心、意志が青空を現出させる・
そう思った10月8日、月曜日。午前8時42分。



無駄な回り道はない

2012/10/15

『宿根草・球根』

朝晩はすっかり秋だが
庭のカワラナデシコの一株が日中の陽気にまた花を着けた。


もう一株の地表部は枯れてしまっている。

庭のポットにカワラナデシコを植えたのは去年。
重信川の河原で手折れていた二株を持ちかえったものだ。

おのればえ(自生)の生命力で花を咲かせ続けた。
秋が深まり冬には、地表部は跡形も残さず姿を消したが、
今年、勢いよく茎を伸ばした。
最盛期には100、200の花を着けていたように思う。

だから来年は花の数が多かったぶんカワラナデシは咲いてくれる・・と思っていた。
間違いなく花は咲くだろう・・・


チオノドクサの球根をお分けした方から
「宿根草の傍に植えました」とメールが来た。


■宿根草

宿根草(しゅっこんそう)は、多年生草本のうち、生育に適さない時期(多くの場合冬であるが、夏のこともある)には、地上部が枯れてしまうが、それをすぎると発芽して、再び生育を始めるもの。

園芸では、常緑多年草もまとめて宿根草というので、多年草は「球根植物」と「宿根草」に分類されることになる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%BF%E6%A0%B9%E8%8D%89 より



地上部が枯れてしまうが、それをすぎると発芽して、再び生育を始める
つまりは根を地中に宿しているから宿根草・・・

いや、
来たるべくその日まで、その命を根に宿し育み続ける宿根草



その方から
球根は親(球)が死んで子供の球根を育むと教えてもらった。
misasi畑に咲かせてくださいとチューリップ、ムスカリの球根をいただいた。




きょうも、きょうの花(命)を咲かす「唯の花」

カワラナデシコの横に咲いている黄のマーガレット
幹はもう木質化して、朽ちたようになっているが花を咲かせている


命を育み繋いでいく宿根草、球根の草花に、もっと感動できる心をもちたい。

いっときの感傷でなく、こころに育み続けるために鍬を振ろう。

2012/10/13

『テントウムシ』



遅すぎた遅蒔きのコスモス

30㎝に満たない草丈の先に蕾が着いた

その蕾にテントウムシが遊んでいた


『テントウムシ』

テントウは、「お天道様(おてんとうさま)」つまり、太陽ですね。何か細い棒にとまり、空に飛び立つ姿が、太陽に向けて飛んでいくことから、太陽の虫。テントウムシという名前がついたらしいです。有名なものは。ナナホシテントウ

http://www3.ocn.ne.jp/~mizukiyo/namae/kontyu.htm より


太陽に向かって微笑め、咲け、

コスモス、コスモスを咲かし切れ

2012/10/03

『TUMIKI』

9/30 テヤヨロ市場で
Gendaさんに撮ってもらってました^^



最初は一枚一枚の木片を積み上げていく

10枚、20枚・・

高さが増すごとに不安定になってくる

一枚の木片をおく指先が緊張してきて、震えてきて、その震えで塔を倒してしまう

残念だが、もう一回だ。さっきよりちょっとでも高く積み上げたいと思う


底辺に4枚の木片を並べて安定感を増そうと考える

20段を超える・・

しかし所詮は4つの不安定な塔が不安定に支え合っているだけ

一つの塔が崩れると連鎖してみな崩れる


木片の置き方を工夫して4つの塔が一つの塔になるように考える

試行錯誤し、効果的な積み方をおぼえる


しばらくすると、その塔に窓を穿ちたいと思う


積んでは崩れ、崩れては積む

その作業を繰り返す

その作業からアーチの積み方もおぼえる


すると、もっと高く、もっと美しく積みたいと思う

そして繰り返す


積んでは崩れ、崩れては積む

繰り返し繰り返す


積木は崩れやすい・・

いや、積木は崩れるものなんだ


崩れるから、また積み上げる

もっと高く、もっと美しくしたいと積み上げる


だからTUMIKIは面白い

2012/10/01

「ふたいわ(双岩)」 突兀(とっこつ)と並び立つ夫婦岩・竜が憩う淵

夫婦岩

突兀(とっこつ)と並び立つ夫婦岩  地名「双岩(ふたいわ)」の由来とのこと(公園より撮影・9/30)

突兀(とっこつ)と並び立つ夫婦岩  地名「双岩(ふたいわ)」の由来とのこと(県道より撮影・9/30)

鉄路の橋脚に「夫婦岩公園の栞」
突兀(とっこつ)として並び立ち・・・


とっ‐こつ 【突×兀】
 
[ト・タル][文][形動タリ]高く突き出ているさま。高くそびえるさま。「―たる両岸の岩山は」〈木下尚江良人自白





既視感ではない・・

しかし、なぜか懐かしのある「双岩(ふたいわ)」の地名

おなじ語感の「双海(ふたみ)」にも同様の思いがある

「双」の字の温かさが好きではあるが

なつかしい温かさ、匂いと言うほうが感覚としては合う


Facebookにアップしたアルバム

きのう(9/30)、「テヤヨロ市場」からの帰り道、川沿いに県道25号線を走る。ところどこで予讃線の鉄橋が見える。 仕事で走り何度も見かけたことはあるが立ちどまることもなかった・・しかし古い懐かしい記憶があるような。 既視感(デジャヴ)、気取った言葉は知ってるが、なんなだろうかな。 拘っていくしかないな・・懐かしい温かい「景」なんだから^^



☆☆
内藤新作の双岩物語



夫婦岩:この二つの岩から双岩という名前がつけられました。

☆☆

 
双の岩、夫婦の岩  温かい


栞にはこうもある。

双の岩の真下の淵には、大野ケ原と大島を往き来する竜が憩う場所であったと。





流れそのものが竜のようである。

優しい竜の憩う場所に似合っている。



優しさ、温かさ

それが匂っている・・ 書き進めながら思う。


前掲「内藤新作の双岩物語」は双岩を愛し愛する物語・・
双岩をゆっくりと歩きたい


拘っていくしかない。懐かしい温かい「景」なんだから


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