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2012/08/31

宇和島から松山へ 「カイドウザクラ」 を移植しました。

画像は、今年の4月7日に宇和島の庭で撮影したもの。
この季節になると鮮やかなピンクの花を着けるが、樹高も低く、枝ぶりが刺々しい感じで余り魅かれることはなかった。

いつのころ植えられたものかも記憶にないが、母の手によるものだろう。

今年は、その母の七回忌だから宇和島の庭に植えられて十年近くになるのかもしれない。
「カイドウザクラ」の名を知ったのは
「お義母さんが、カイドウザクラ と言ってましたよ」 妻からだったと思う。

ま、その程度の意識しか持ってなかった 「ハナカイドウ」




盆前の帰省は庭掃除、もっとストレートに草刈りの為が例年である。

松や高木の剪定はシルバーさんに頼むが、経費節約のために草取りはボクの仕事。

今年もカイドウザクラの植わっている辺りは草が生え放題になっている。

例年と違ったのは、この辺りを駐車スペースにしようとの妻の提案。


角地の百日紅の伐採、邪魔になる柿の枝切りを終えたシルバーさんが
「こいつは どうしますか?」 カイドウザクラを指差した時、

鮮やかなピンクが蘇った


カイドウザクラ

母が愛でたであろう カイドウザクラ

松山の庭に咲かせたいなと思った。


「手入れがないと樹形があばれる」  ネットで見たとおりの姿です。


★ (かいどう桜の栽培)
かいどう桜を地面に植えて手入れをせずに放っておきますと、成長は早く少しトゲもあり形はあまり良く有りませんので樹形があばれてしまいます。
でもこれを手入れして、鉢で栽培致しますと新芽と、蕾、花色のバランスが良くとても美しいです。
又、かいどうリンゴを鉢で栽培致しますと、花を観賞した後にミニリンゴの実が着いて来るのは楽しいものです。
我が家では、一本で実をつけるかいどうリンゴを土手に植えていますが、毎年多くの実をつけてくれます。。

http://blog.goo.ne.jp/roze-1/e/9866735b2d505ff9999857d5009ac2c8 より


「手入れをして鉢で栽培致しますと・・ とても美しく 楽しい 」

呪文のように唱えハサミを入れて鉢に移植したのですが果たして


あとは、祈りと水遣りを欠かさない様にしないといけません!^^


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「カイドウザクラ」は通称で、

カイドウ(ハナカイドウ) が正式のようです。

漢字では 海棠(花海棠)

※漢字で書くと『海棠』です。棠は梨のことで、海棠とは海外から来た梨という意味です。



2012/08/28

misasiの農人日誌(8/25・26)

Farmer・misasi を 農人misasi に変更しました。 
農人は人名風に「なるひと」「なると」なんても思いましたが、ストレートに「のうじん」で(^O^) 

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■出発即にハプニング 

23日(木)に宇和島に入っていたので25日の畑行きは6:45始発バス 
リュックを背負い、荷台にカメラバック、大型のトートバック 
颯爽と愛チャリを駆る(笑) 

ところがバスセンターまで道半ばでチェーンが(><) 
時刻が時刻で開いている自転車屋さんはない、トボトボとUターン自転車。。 


次発を調べたら何と正午前!! 

畑に到着は5時間の遅刻(笑) 

でも、この5時間は得難く貴重とも評価できる

秋の夜長を慰めてくれる本を探すことができたのだから^^


■目の前の畑は 

草ぼうぼう・・・茫然(^^;) 

















☆目に飛び込んできた赤、白、黄色! 
種を蒔きっぱなし状態の百日草が花を輝かせています♪ 





健気に唯、己が花を咲かすその姿に胸がキュンとなる涙 
そして、勇気と元気頂きました!! 

Facebookマイアルバム 農人misasi畑の 百日草 


■先ずは草に覆われてしまったサツマイモの草取り 

こんな状態(><) 




















もくもくと伸びた弦を起こして草を取る・・

 
トウモロコシも気になる
こちらも草ぼうぼう・・














中の畑の土起こし、出来れば畝立てまでと計画してるのに・・
作業進捗の鈍さに苛立ちも。時刻は5時が迫っている
5時間の朝の遅刻を、これも得難い時間だったとした余裕の欠片もなくなっている

サツマイモの弦を起こして草をとる

(きょうは此処までかな・・)そんな思いが頭をもたげ掛けたときに流れて来たのが、5時の時報と地元城川中学校の一年生の合唱・Foreverの歌声だった。

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ググってみたら城川町の歌声時報・2012年8月
流される歌は月ごとに更新されているようだ。素適な取り組みだと感動する(8/28追加)


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月に2,3回しか作業に来れないために、知らず知らず無理を詰め込んでるよな~
なによりヒヨワな新米農人なのにさ~

メロを追いながら、自虐じゃなしにそんなことを思った、、いや思えたとするのが正しいかな。

勇気みたいなものを与えてもらえて、素朴な歌声に背中を押してもらって草取りを続けた。
トウモロコシの草取りは明日に回すことにする。
道具を片付けて初日作業を終える。時に18:30、作業時間3時間。


見上げた空に 虹
それは明日へ繋がる虹の橋・・ Forever


■家では携帯もパソの無線ルーターも電波を拾わない。 
汗を流して夕食 
差し入れていただいた海鮮巻きが美味い!! 
五つをペロリ。これも差し入れの地鶏朝どり卵を飲んで横になり本を読む。 


著者が亡父と旧宇商の同期であった関係か書棚に著書が並んでいた。 
私自身は映画のファンと言うほどでもなかったが、その存在が青春時代に占めた部分は大きかったと思う。 
宇和島には七つも映画館があったと言う。 
あたしの記憶にもキリン館、東映、スバル座、菊みどり、ロマン座・・の名前が刻まれているが 
いまは無い。 

それぞれの青春・・ 
亡父に重なるそれもあろうし、それは私自身にも被さるところもあろう・・ 


■26日は5時に起床。 
外は薄暗く、肌寒い。朝靄が深い。 

■5時半過ぎから草刈り機を回す。 
ビニルワイヤーの長さを調整。ボルトの締め緩め方向をなやむ。 
まだまだだな・・。それよか作業の後の手入れ、次回作業のための準備がお座なりなのが我がことであるのが辛い。自戒せよ!自戒せよ! 

1時間と少しで、中の畑、上の畑の草刈りを完了して、管理機を回す。 
始動はしたが・・・ 
エンジンが吹かない・・・・ 
ノロノロとしか動かない・・土は起きない・・・ 
アクセルワイヤーを引っ張ってみる。瞬間唸りをたてるが・・・ 


■「そんなじゃエンジンが止まる」背に声が届いた。 
振り返ったら、顔をあわせると必ず声を掛けてくれる男性。 
素人の私の頓珍漢な質問にも丁寧に教えてくれる優しい人だ。 

ぼくから機械の様子を訊くこともせずエンジンのあたり、アクセルレバーを診てくれる。 
「ワイヤーがイカレたかな。10年20年使いよったら色んなとこにガタがくるから」振り向くこともなく云いながら診てくれる。 
日曜で農協も閉まっているし・・近々に部品の在庫とか調べてもらうこととする。 

目の前は真っ暗だ 
焦らず落ち着け落ち着け 
いまやれる作業を考えてそれをやろう 
思うほどに苛立つ 
苛立っては解決が遠ざかるのは自明なのに・・経験不足・・・現場!現場!・・ 

■和さんが畑に降りて来てくれた。 
先ほどの男性との遣り取りを伝える。 
「ほうか。 この辺りじゃ機械に一番詳しいんじゃ、ちょうど通りかかったんで診てくれと頼んでみたんじゃ」 
「きょうは農協さんも休みじゃけん・」ぼくが言おうとしたら先を遮るように 
「きょう10時か10時半に家に農協がくるけん。言うてもうわい」和さんは言いながら身体を反転させていた。 


■農協農器具センターの文字が入った軽トラが着いたのは10時前だった。 
和さんが急がせてくれたのだろうか・・ 
身を反転させて足早に家へ向ったのは至急の連絡を入れてくれたのだろう 
和さんも優しい 

■「今は稲刈りが始まったから日曜もないですよ」 笑顔の声である。 
「あれ、リコイルも壊れとる。 これも直すけん、部品は残っとりますか?」と声が続く。 
倉庫に部品を取りに行き戻ってくると作業中である。



作業は順調そうである。
ところが (なんで・・) 一瞬(そんな分解まで・・) 

作業が続きエンジンを始動する。 
力強い音だ。 

素人であっても、一瞬であったにしても、(分解まで)なんて思いをもった自分が嫌になる 
現場対応のプロに全てを委ねて、こんごのトラブル対応を学ばねばならないのに 

「さっきワイヤーを確認したら在庫あるいいよったけん、今日は無理じゃけんど直しときます。リコイルも一緒に」 
「ワイヤー換えたら、もっと馬力出るけん」 

優しい人がここにも 

☆管理機が唸る。心地よい音だ。 
中の畑だけだが、管理機を5回走らせることが出来た。 
農協さんを待つ時間でトウモロコシの草取りも済んだんだ。


畝立ては出来なかったけど、今日が終わりじゃないんだから

作業に慣れて無理、無駄、ムラのないスケジュールに活かせるようにすれば良い

前向きにそう思えた。こんかいの収穫の一つである^^


2012/08/22

【現場】に立つということ。

百姓は自らの足で畑に立つ。

自らの手で鍬を振るう。 土を掴み、土を撫ぜる。

現場に立つということは尊い行である。

百姓になりきりたい(Farmar・misasi)


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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
   平成24(2012)年8月22日(水曜日)
        通巻第3732号 
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 戦場カメラマンの死に接して「存在と無」を思った
  享年45歳。三島由紀夫をどうしても連想してしまう
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 シリア内戦の戦闘現場に散った日本人女性ジャーナリスト。山本美香さんは享年45歳。一見、梶芽衣子風の美人。和服が似合いそうだ。
 筆者は生のとなりにある死、不意の死を考えるとき、いつも「存在と無」に思惟がいきついてしまう。サルトル実存主義の信奉者でもないが、存在が突如、不在になる。我が国の仏教思想でいえば色即是空の世界。この世界の存在はすべて無である。『般若心経』の肯綮である。

 三島由紀夫は遺作『豊饒の海』の最後の場面を「なにもないところに来てしまった。庭は夏の日だまりのなかでしんとしている」と書いて逝った。
 「此后再不聞任何声音、一派寂寥、園里一無所有、本多想、自己是来到既無記憶又別無他的地方。庭院沐浴着日無尽的陽光、梢無声息。。。。。。。」(2011年。北京作家出版社、林小華訳)
 三島由紀夫は享年45歳。

 さて筆者は戦争現場から遠く離れた安全地帯に身を置くので、とやかく彼女の死について発言する気持ちもなければ、美しくも壮絶な死に様に大所高所から云々することは控えたいと思う。

 ベトナム戦争がつづいていた頃のサイゴン(現在のホーチミン)。
1972年師走から翌正月にかけて、筆者は重いカメラを担いでベトナム戦争の末期を取材していた。サイゴンの書店で見つけたのは鈴木大拙と、西田幾多郎のベトナム語訳であった。
 連日連夜、市内の何処かで銃撃があり、爆発音が聞こえ、筆者が泊まっていた河畔の宿「マジェスチック・ホテル」は外国人記者のたまり場だったが、夜、砲撃を受けたこともあった。開高健も、このホテルに投宿したことがある。

 73年バンコック。「血の日曜日」といわれた学生大量虐殺によってタノム首相は海外へ亡命し、軍事力による民主化弾圧は逆効果となった。軍は死体を隠した。筆者はすぐにバンコクへ飛んで学生指導者らとインタビューを重ねた。かれらが日本人と聞いて興味を示したのは三島由紀夫の自決だった。

 紛争地は随分とまわった。パキスタン、イラン、イスラエル、キルギス。。。。。。。。
 1988年のイラン・イラク戦争ではファオ半島の戦闘現場に二台のカメラを持参した。死体がごろごろとして、すぐ前方ではイラクの兵士が銃撃をしていた。さきほどまで銃を構えていた兵士が砂漠に横たわり、死臭をかいで蠅が無数にたかってきた。やはり筆者の脳裏を去来したのは「存在と無」である。

 1989年から91年にかけてロシア内戦、エストニアの戦闘があった。やはり望遠レンズ付きのカメラを二台かついでバルト三国へも出かけた。各地に戦闘の残骸をみた。

 そして気がつけば、ベルリンの取材のとき、45歳になって、筆者は重いカメラを担いで走る体力が尽きた。
戦争ジャーナリストは結果的なものであり、この仕事はもはや体力的に無理であると悟ったのも、自らが三島由紀夫の享年を超えるという自覚に基づく。
 個人的なことを加筆すればその後、五十歳で大病を患い、以後幸いにも十六年も続いている人生は付録のような僥倖、いまも現場はひたすら歩くけれども持参するのはデジタル・カメラ。戦場をはしる体力がないので、ともかく中国のあらゆる『現場』をみることにしている。
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2012/08/06

川津南楽念仏を見学しました。



「川津南やっちみる会」 さんのブログで8月5日に「楽念仏」が開催されるのを知って見学させてもらいました。

国道197線から県道284号線へ(目印は高井郵便局)東方へ進みます。
菊之谷集落を過ぎたら道は大きくうねり大門峠を越え川津南へと入っていきます。
初めての訪問と言うこともありますが、別世界が拡がった感覚も持ちました。

道なりに進めば北側にお堂の藁屋根が目に入り、石段を昇られる方の姿も。
会場の西方寺の場所を確認しようと車を路肩に。

■瑞光山 西方寺


道からは急こう配です。
見上げると 「瑞光山 西方寺」と刻まれた石柱があります。
山門に見えた萱屋根はお堂のようですが、保存されている城川茶堂より二回りは大きい感じでした。





お堂の前で出会った男性と、6月末から魚成で月に3,4回の畑作業をしていること、今日の楽念仏の開催を知った経緯とかをお話して、闖入の参列、撮影の可否をおたずねしたら

「どうぞ。どうぞ。」と。

楽念仏が地区内の新仏さまの施餓鬼供養で、「打ち上げ」と呼ばれる最後の太鼓、打鐘にあわせた練り(踊り)はなかなかのもんよ。と優しく案内してもらう。







会場では、カクカクで撮影に来てもらえたよとお世話役に紹介していただき、本堂にあがって撮ったらエエわい。



「どこの畑ぞな・・」
「あぁ、その友だちは知らんが親父さんは識っとるぜ・・」
「作物は朝日が当たるのはエエけど、西日は気をつけないかん・・」
 
「うっとこの施餓鬼は練りがあるから珍しいんよ」
「セガキじゃないぞ、セジキエぞ」

式次第を見ながら話がはずむ。


「施食会」と書いてセジキエ、曹洞宗ではセジキエと呼ぶようです。

参考:「お盆とお施餓鬼について」



細い雨粒が降り続けてました。

上にリンクを貼った「川津南やっちみる会」ブログより

5集落の真中の小高い所には、地区の守り神様「三柱神社」があり、西の方には私達の先祖をおまつりする曹洞宗「西方寺」があります。神様を拝み、仏様を敬う信仰心が厚く、隣近所が助け合う人情豊かな土地柄です。

写真を見返しながら、迎えてくださった方々の素朴な優しが蘇って来ます。

昨年は父の逝去で寺の施餓鬼会に参列しました。表面的に施餓鬼を語ることはできても参列は義務感と言ってもよいものでした。当然、お念仏も唱えることは出来ませんし正座の痛みに耐えるのみでした(笑)

川津念仏をこう語って頂いた方がいます。
「役についたら(太鼓、鐘)念仏は、どうにかにでもすぐ覚えるが踊りはナカナカな」

気恥ずかしさはあったけれど
「言葉は理屈ですから覚えやすいでしょうが、踊りは感性ですから、身体に沁み込ませんといかんですよね」
(うんうん)と大きく首を振った笑顔が浮かんできます。


新仏のいる家のものとして義務感のように参列した昨年の参列、それは理屈の参列だったと言い換えても良いかとおもいます。

川津南念仏を見学させていただいて、やさしく接していただき、共生の場の温かさ力強さを実感することが出来ました。
ありがとうございました。

打ち上げ 共生のリズム(息吹)が轟渡ります。




































共生リズムの符牒でしょうか



ありがとうございました。

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