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2014/11/20

白面の鹿② (南予の「鹿の子」と山形の「鹿の子」)

「山形の鹿踊」をKeyWordに検索してたら、次に出会いました。
私の知識ではチンプンカンプンですが
太字にした部分に目を引かれました。

『富並上中原奈良朝鹿の子舞 ー白面の鹿子ー』
http://www.h2.dion.ne.jp/~yun0sawa/tominamikaminakaharasisiodori.html

 富並上中原奈良朝鹿の子舞はなんといっても鹿子の頭が白いという点が特徴です。ジャングル大帝のレオのような真っ白い鹿子なのだろうか、等といろいろなイメージを想像していたのですが、最近ようやく「山形のシシ踊り」というホームページでビデオを見ることができました。頭がまっ白、というよりは顔が真っ白な鹿子でした。最後に踊られたのが昭和55年と聞いていたのですが、ビデオで見る限りもっと最近のように見えます。長島鹿子踊同様、ぜひ機会があればぜひ自分の目でその優雅な舞を見てみたいと思います。
 文献によれば牡の頭には太陽、牝の頭には三日月、添鹿子の頭には菱形がつけられています。腰には御幣を差し、5頭で舞い、鐘打ち1、ささら3、笛方、唄方、太鼓1からなります。舞は平城京と平安京に遷都が行われた当時、時の元明天皇、桓武天皇を鹿たちが都までお送りした様子を写したものといわれています。生前父は、「あの鹿子踊は他の鹿子踊とは違うのだ。あれは(山寺ではなく)葉山に対して奉納する踊なのだ。」といっていました。だとすればにしかたに住む者にとって最も身近な鹿子踊ともいえます。
 富並上中原鹿の子踊は、その縁起をも古く白獅子で、太陽と三日月紋・マサカリでなく御幣を持ち、山寺参詣をしません。奈良調大和生駒獅子踊の流れをくむ舞で、縁起によれば桓武天皇を伝える鹿の子舞いは長島と大江町深沢とここ上中原だけに伝わるものです。決して華美な踊ではありませんが、葉山修験の富並I氏の関係の獅子で葉山作神と太陽信仰を伝える県内でもまれな伝統農民芸能文化です。
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何と言っても「…鹿の子舞はなんといっても鹿子の頭が白いという点が特徴…頭がまっ白、というよりは顔が真っ白な鹿子」の記述には身震い‼️

城川町下相の「しかのこ」も顔が真っ白な鹿の子である。
参照:misasiblog「白面の鹿 城川町下相の鹿踊り」

ただし、面相は明らかに異なるが。この点は措くことにして
次に興味を引かれたのは、鹿(しし)踊りを「鹿の子」と表記してあること。
上に載せたmisasiblogに書いたが、宇和島では「八つ鹿踊り」を「しかのこ」と呼んでいた。
呼称には呼ぶ人の親しみとかの感情、想いが顕れると思うけれど、何か共通するものがあるんじゃなかろうか。

文章が彼方此方するので、すこし纏めてみる


なんで「山形の鹿踊り」か?
愛媛県の南予地方に数多く保存伝承されている鹿踊りが、伊達氏の宇和島入部によってもたらされたものであることは確かであろうが
伊達氏即仙台の連想から仙台の鹿(しし)踊りの移入とする説をよく聞くが、そうであろうか?
伊達氏の父祖の地は山形であり、「和霊神社」に神として祀られる家老山家清兵衛は米沢のヒト。。
山形に拘りたいのは、これくらいの事なんですが、前にも同じことをBlogに書いたことを思い出しました。

長くなりますが、確認の為に転記します。

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五ツ鹿踊

2000年05月25日 | 八幡浜民俗誌

鹿踊は獅子舞の一種で、一人立ちで鹿頭をかぶり、胸に鞨鼓を抱え、幌幕で半身を覆って踊るもので、南予地方周辺の祭礼に登場する民俗芸能である。一人立ちの鹿踊(シシ舞)は、東北地方をはじめとする東日本に広く分布しているが、西日本では、福井県小浜地方と愛媛県南予地方周辺のみ見られる。南予地方の鹿踊は、江戸時代初期に、宇和島藩初代藩主伊達秀宗が宇和島に入部した折に、仙台から伝えられたと言われているもので、源流は東北地方にあり、仙台周辺の鹿踊と共通する点が多い。 鹿踊は、南予地方でも旧宇和島、吉田藩領内とそれに隣接する地域に分布しており、牛鬼と同様に、宇和島地方からその周辺に伝播したもので、約百箇所で踊られている。東限は大洲市、長浜町、肱川町であり、南限は高知県幡多郡になる。上浮穴郡に鹿踊は見られず、牛鬼よりは分布の範囲は狭いのが特徴である。 名称は「シカオドリ」、「シシオドリ」、「カノコ」等であるが、踊る人数によって「○ツ鹿」と呼ばれることが多い。 踊る人数は地域によって異なり、宇和島市や城川町窪野等では八人で踊る「八ツ鹿」、吉田町等では「七ツ鹿」、城川町下相等では「六ツ鹿」であるが、ほとんどは五人で踊る「五ツ鹿」である。八幡浜では舌田、川上、真穴に五ツ鹿踊があるが、昭和二〇年代までは五反田にも五ツ鹿踊があった。 南予地方の鹿踊は、江戸時代に仙台から宇和島に伝えられた当時は、八人で踊る「八ツ鹿」であったが、宇和島から各地に広がるうちに鹿の数が減り、現在は五人で踊る「五ツ鹿」が一般的となっているという俗説がある。 ところが、宇和島城下で踊られた鹿踊、つまり宇和島市裏町一丁目の鹿踊は、現在では「八ツ鹿」であるが、江戸時代末期成立の絵巻を見ると、五ツ鹿であり、明治時代以前には五ツ鹿であった。実際には大正時代に宇和島に摂政宮(後の昭和天皇)が来られた際に、台覧に供するために八ツ鹿に変容させているのである。つまり、南予地方の鹿踊は、仙台から伝えられた当時が何頭であったかは不明だが、少なくとも江戸時代後期には五ツ鹿が主流であり、これが宇和島から八幡浜地方をはじめ南予各地に伝播したと考えられる。 八ツ鹿踊が本流で、各地に伝えられるうちに五ツ鹿踊になったというのは、「創られた伝統」であり、実は史実とは異なるのである。 

2000年05月25日 南海日日新聞掲載

(出典)

五ツ鹿踊 - 東北地方の博物館【地震関連】~ブログ「愛媛の伝承文化」より当面改題~:

'via Blog this'

※愛媛県歴博 専門学芸員 大本敬久 氏のブログから転載
※太字強調は引用者

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講演していただいた大本さんのブログから借用させていただきました。
かなり、ショッキングな締めになっております(笑)


わたしの「八つ鹿」への思い入れは、「裡町」へのそれと表裏一体なんです。
この一月に逝った父の出生地が裡町にあることを、仕舞のためにとった書類のなかに確認しました。
確認と書いたのは、一度だけ裡町の思い出を語ったことがあります。
おそらく通学路でのことだと思いますが、「辰野川沿いの傘屋さんの「渋」の匂いが好きだった。」
今となっては、私に語りかけたのか、それとも独り言だったのか・・判然とすることはできませんが

聴いてみたかったなぁ って思うんです。
「鹿踊りの思い出でもあったら聞きたいな」って。

これを、「父祖の地への想い」なんて書くと汗顔至極ですが、やっぱり、そんな思いがあるんです。



講師も指摘されましたが、仙台伊達藩の父祖の地は山形米沢。
和霊神社に祀られる山家清兵衛も山形の人。
伊達入部の総人数2000人。
仙台の鹿踊りが宇和島へ南予へ持ち込まれたのでないことは容易に推察できます。

入部した人それぞれの父祖の地への想い郷愁が、それぞれ様々な装いをもって発生していったのでは・・、そう云う形態のものも少なからずあるんじゃないかな・・・ こう思いたいだけなのかもしれませんが。

’11.10.15「【鹿踊り・2】講演「東北地方と南予の縁」を聴講して 【国境・くにざかい】

入部に従った2000名の人びと
藩政の仕組みのなかで城下を離れた地に赴任された人も可なりな数であったのでは・・

■鹿踊りは東北の地から伝えられた。

伊達秀宗の入府(1615年)と共に伝えられたという「鹿踊り」だが、論証はされておらず
資料としては、龍光院に残されている文書(1706年)に鹿踊りに関し「57年間使ってきた鹿頭が痛んできた・・」との記述あり・・ 

(講演は、のっけから核心に入るの感あり)
(単純に、1706-57=1649年と、入府の年(1613年)との隔たりは、父祖の地を離れて三十有余年、故郷への郷愁が南予の地に様を変えた踊りとして再新生したものとの感慨を持つ)

「【鹿踊り・1】講演「東北地方と南予の縁」を聴講して


情緒に流れるばかりで纏まりませんが^^;
これが一歩を積み重ねるしかない!^^;;

八つ鹿 5か所
五つ鹿 58所 (圧倒的に多い。)
六つ鹿 10所 (意外)
七つ鹿 3所  吉田町(立間、法華津) 


わたしも思います。
圧倒的に多い58所に伝承保存されている「五つ鹿」が、伊達氏の宇和島入部にともなって持ち込まれた「鹿踊り」の原型(種)であろうと。

冒頭に挙げた『富並上中原奈良朝鹿の子舞 ー白面の鹿子ー』も「5頭の舞い」とあります。
「南予の鹿踊り」の大きな源流のひとつを山形に思う気持ちが高ぶってきます(笑;)


「あの鹿子踊は他の鹿子踊とは違うのだ。あれは(山寺ではなく)葉山に対して奉納する踊なのだ。」の記述も、東北の鹿踊りが「死者供養」の側面が大きいの対し、南予の「しかのこ」は神事への奉納の形で伝承されていることと合わせてみると、里山信仰の類似を思ったりします。


葉山信仰 https://kotobank.jp/word/%E8%91%89%E5%B1%B1%E4%BF%A1%E4%BB%B0-1196700

東北地方南部を中心に分布する作神的性格をもつ信仰。葉山は端山,羽山,麓山などと記されるが,奥山や深山(みやま)に対する里近くの端山を意味する。多くは村はずれの山の上に小祠を設けてまつられ,祭神を羽山祇神,少彦名(すくなびこな)命とし,薬師如来を本地と説く。山形県村山市の葉山からの勧請(かんじよう)をいう社もあるが,葉山修験との直接の関係を示す史料は見いだせない。葉山信仰の特徴は作占における託宣儀礼にある。

作神(さくがみ)



農神,農作様ともいう。農事一般の保護神で,農民が祀る。


「にしかた」

山形県北村山地方の最上川西岸,葉山山麓の地域は,古来,「にしかた郷」とよばれていました。(参考 http://www.h2.dion.ne.jp/~yun0sawa/ )


白面の鹿 (城川町下相の鹿踊り)

11月2日、城川町下相(おりあい)八幡神社の宵宮で。

宮司さんの祝詞で宵宮が始まりましたが
鹿頭の向きが気になりました。神殿の方を向いていなくて参列側に向き合っています。
そして六頭の鹿の面は白色です。瞬間、ジャングル大帝レオが連想されたり(笑)鹿で有名な奈良では白い鹿は「神様のお使い」と言われていることを思い浮かべたり


やはり、白面の鹿は神様の側にあるんでしょうね。一段高いところから参列者と向かい合ってます。
とすれば、「鹿踊り」には、神前に奉納する芸能と言うことの他に何かあるように思えます。
まさに「神のお使い」として「神幸(みゆき)の舞」と言うような…。

雌鹿の面

牡鹿の面



以下は、10月27日 【城川歴史民俗資料館】で撮影。


現存する最古の鹿面



「下相八幡神社奉納の六つ鹿踊の面である。
この鹿面六個のうち、一号面の裏面に「嘉永四年亥八月吉日、裏町
一丁目、森田屋磯右衛門源吉昌花押」の銘がある。同人の作になる
古面は広見町清水に嘉永六年癸丑八月吉日作と、宇和島本町追手に
安政四年丁己六月吉日作が現存しているが、下相八幡神社の鹿面が
南予最古のものであるということができる。よく原形が保たれている
貴重な鹿面である。」(説明文ママ)
注)嘉永四年〈1851年〉
   嘉永六年〈1853年〉
   安政四年〈1857年〉

牝鹿


牡鹿



古面の保存状態の素晴らしさは、それだけ大切に守られてきたことを示すものだが、
その面相が瓜ふたつに現在の面に伝えられていることが感動的だった。

いまの私に、説明文にある広見町(現、鬼北町)清水、宇和島本町追手の古面と現在の面とを比較対照する手立てはないけれど、下相の鹿面同様の伝承保存があることを祈りたい



鹿(子)踊」は南予各地に伝承保存されている。
その底流にあるものは、ヒトとヒト以外の生き物との共感、共生への祈り(自然の中に生かさせてもらってるヒトの祈りではありますが)みたいな…それこそ言葉(論理)では語り尽くせない想いの込められたものだと思います。
父祖の地への想い
今、母なる大地への熱い想いが「しかのこ」の踊に込められ脈々と流れ続けていると思います。

確かに鹿踊は伊達氏の宇和島入部によってもたらされたものでしょうが、それは「しかのこ」の種蒔きであって、各地各様の様式の「しかのこ」と生ったのは「自然を畏怖する純粋な心」が「しかのこ」を育み続けた成果だからだと思います。


そして、そんな側面にこそ注目着眼して「鹿(子)踊」を見つめ向き合っていきたいと思います。


(memo:「鹿(子)」と書いたのは、初めてシカオドリを知った時(小3の時、宇和島でですが)「しかのこ」と呼ぶのが一般的だったように記憶しているからです。そして、南予の鹿踊は伊達氏の宇和島入部によって東北から移入されたもので、東北では「シシ踊」と呼ばれる。鹿子は「シシ」とも読める…妄想も含めています^^; が、各地に伝承保存されている鹿踊の呼称にも興味が湧きます。)


2014/11/07

男河内の鹿踊り(五つ鹿) ”笹”を飾る五行色

男河内(おんがわち)に伝承保存されている「鹿踊り(五つ鹿)」が、11月3日の魚成一宮神社(地元の方は、「いっくうさま」「いっく神社」と呼ばれます。)例祭に奉納されます。

「お旅所」での「神幸式」で (‘14.11.3)



五色の短冊を飾った”笹” (伝承保存されている方に「たんに”ささ”って呼んでます。って教えてもらったので、それに倣って単に”笹”と表記、呼ぶようにしています。)


”笹”を飾る短冊の色を見ると
「緑」「紅」「黄」「淡青(空色)」「紫」の五色ですが、五行色の「間色(かんしき)」にピッタリと一致しています。

二年前になりますが、祭りの前日の準備などを見学させてもらったとき「(この笹は)「山」を現しているんです。」と教えてもらいました。
  ( 「一宮神社の秋祭り① 【男河内の鹿】(2日の準備を見学させてもらって)
四季折々の山のイメージなんだな、と感心したものでしたが、五行色との一致を認めると、脈々と流れ伝わる信仰生活のなかの伝統芸能なんだなと感慨が深くなります。

     五行色の短冊は、「男河内の鹿踊り」の貴重な特徴点と評価して良いと考えます。          




鹿踊りが伊達氏の宇和島入部に伴って移入されたことは間違いないことでしょうが、旧藩版図に50有余伝承保存されている鹿踊りを見るとき(実際を観たのは数所しかありませんが)、その土地土地の自然、精神風土が色濃く影響しているであろうことに留意したいと思います。

それと、妄想的ですが
各地に播かれた鹿踊りの種は、かなりな種類があったように思います。宇和島藩入部に供なった人数は二千人とも、その人たちのなかには各地に配された人々も多数あったことでしょうし、その人たちが遠く離れた故郷、父祖の地を想い、鹿踊りの種を播いたんじゃないかなと思うんです。

講演会で教えてもらったことですが、鹿踊りが文書に初めて記された年と、入部の年の間には可なりな開きがあるそうです。このことは、前述した種蒔きによる自然発生的な鹿踊りが各地に発芽、生長していったことの裏付けの一つと捉えてイイようにも思うんです。

参照
 五行とは、中国古来からの思想で儒教を中心とする思想家の間で発展したものです。のちに陰陽思想と結びついて陰陽五行思想となって日本に伝来し、日本では陰陽道として展開していきました。
 五行では、木・火・土・金・水の五要素が世界のあらゆるものを構成する基礎となるという考えに基づいた思想です。その五要素には、青・赤・黄・白・黒という色が配当されます。この五色(ごしき)を「正色(せいしき)」といいます。「間色(かんしき)」と呼ばれる色のグループもあり、「緑」「紅」「黄」「縹(はなだ)」「紫(紫は、古来、黒と赤を混ぜた色のことをいった)」と配当されます。 
 【五行と色】より抜粋 (太字は引用者)

(はなだ)もしくは縹色花田色、はなだいろ)とは、明度が高い薄青色のこと。
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CF
城川町窪野「八つ鹿」にも短冊飾りがありますが、牝鹿二頭のみ纏い、牡鹿六頭は飾らない。
はっきりと識別したんじゃないですが、五行色以上に、他色が混じっているように見えます。