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2012/08/22

【現場】に立つということ。

百姓は自らの足で畑に立つ。

自らの手で鍬を振るう。 土を掴み、土を撫ぜる。

現場に立つということは尊い行である。

百姓になりきりたい(Farmar・misasi)


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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
   平成24(2012)年8月22日(水曜日)
        通巻第3732号 
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 戦場カメラマンの死に接して「存在と無」を思った
  享年45歳。三島由紀夫をどうしても連想してしまう
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 シリア内戦の戦闘現場に散った日本人女性ジャーナリスト。山本美香さんは享年45歳。一見、梶芽衣子風の美人。和服が似合いそうだ。
 筆者は生のとなりにある死、不意の死を考えるとき、いつも「存在と無」に思惟がいきついてしまう。サルトル実存主義の信奉者でもないが、存在が突如、不在になる。我が国の仏教思想でいえば色即是空の世界。この世界の存在はすべて無である。『般若心経』の肯綮である。

 三島由紀夫は遺作『豊饒の海』の最後の場面を「なにもないところに来てしまった。庭は夏の日だまりのなかでしんとしている」と書いて逝った。
 「此后再不聞任何声音、一派寂寥、園里一無所有、本多想、自己是来到既無記憶又別無他的地方。庭院沐浴着日無尽的陽光、梢無声息。。。。。。。」(2011年。北京作家出版社、林小華訳)
 三島由紀夫は享年45歳。

 さて筆者は戦争現場から遠く離れた安全地帯に身を置くので、とやかく彼女の死について発言する気持ちもなければ、美しくも壮絶な死に様に大所高所から云々することは控えたいと思う。

 ベトナム戦争がつづいていた頃のサイゴン(現在のホーチミン)。
1972年師走から翌正月にかけて、筆者は重いカメラを担いでベトナム戦争の末期を取材していた。サイゴンの書店で見つけたのは鈴木大拙と、西田幾多郎のベトナム語訳であった。
 連日連夜、市内の何処かで銃撃があり、爆発音が聞こえ、筆者が泊まっていた河畔の宿「マジェスチック・ホテル」は外国人記者のたまり場だったが、夜、砲撃を受けたこともあった。開高健も、このホテルに投宿したことがある。

 73年バンコック。「血の日曜日」といわれた学生大量虐殺によってタノム首相は海外へ亡命し、軍事力による民主化弾圧は逆効果となった。軍は死体を隠した。筆者はすぐにバンコクへ飛んで学生指導者らとインタビューを重ねた。かれらが日本人と聞いて興味を示したのは三島由紀夫の自決だった。

 紛争地は随分とまわった。パキスタン、イラン、イスラエル、キルギス。。。。。。。。
 1988年のイラン・イラク戦争ではファオ半島の戦闘現場に二台のカメラを持参した。死体がごろごろとして、すぐ前方ではイラクの兵士が銃撃をしていた。さきほどまで銃を構えていた兵士が砂漠に横たわり、死臭をかいで蠅が無数にたかってきた。やはり筆者の脳裏を去来したのは「存在と無」である。

 1989年から91年にかけてロシア内戦、エストニアの戦闘があった。やはり望遠レンズ付きのカメラを二台かついでバルト三国へも出かけた。各地に戦闘の残骸をみた。

 そして気がつけば、ベルリンの取材のとき、45歳になって、筆者は重いカメラを担いで走る体力が尽きた。
戦争ジャーナリストは結果的なものであり、この仕事はもはや体力的に無理であると悟ったのも、自らが三島由紀夫の享年を超えるという自覚に基づく。
 個人的なことを加筆すればその後、五十歳で大病を患い、以後幸いにも十六年も続いている人生は付録のような僥倖、いまも現場はひたすら歩くけれども持参するのはデジタル・カメラ。戦場をはしる体力がないので、ともかく中国のあらゆる『現場』をみることにしている。
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