東日本大震災15年
〈福 島 は 今〉
2011 − 2026
東日本大震災による東京電力福島第1原発事故の発生から間もなく15年になる。2月上旬に日本記者クラブ取材団の一員として、廃炉作業が進む同原発や、除染土を保管する中間貯蔵施設が立地する福島県双葉町などの被災地を訪れた。廃炉への道のりや復興途上にある福島の現在地、除染土の県外処分といった山積する課題について報告する。 (山口裕之)
㊤ 〔原発廃炉作業〕
【高線量51年完了に疑問符】
2011年3月11日、福島第1原発は約15の津波に襲われ浸水。電源を喪失し1~3号機で炉心溶融(メルトダウン)が起きた。1、 3、4号機は原子炉建屋が水素爆発。大量の放射性物質が放出された。
敷地内は現在もほぼ放射線管理区域で、環境線量を下げる対策を講じている。 「R(レッド) ゾーン」の 1~4号機の建屋周辺は、 防護装備として服の上につなぎのカバーオール、耐水性のあるフード付き上着を重ね着し、全面マスクを着用する。各エリアで被ばく線量を管理しながら、1日約5千人の作業員が働く。
取材団は福島県富岡町の東電廃炉資料館からバスで福島第1原発へ。事故後、バリケードで封鎖されていた国道6号を進むと、沿道の線量計が目に入る。富岡町では毎時0・2267 (東京都内の約5~6倍)、 大熊町では1・107 と、原発に近づくにつれ線量が増す。大型店舗が並んでいた通りは、解体が進み更地が目立つ。
原子炉建屋が見渡せる高台でバスを降りた。東電の木元崇宏リスクコミュニケーター(RC、50)が、放射性物質の飛散を防ぐ大型カバーが設置された1号機を指さす。「カバーが開いている所の真下に使用済み燃料プールがあり、その上のがれきをまず撤去する」
1、2号機の燃料プールには使用済み燃料約千体が残ったまま。原子炉建屋から共用プールへの移送を急ぐが、高い線量が作業をむ。水素爆発を免れた2号機は建屋に大きな破損はなかったが、最上階の線量が極めて高く、内部での作業が困難だ。建屋南側に燃料取り出し用の構台を建て、 燃料取り扱い設備を設置し移動用レールも整備。20年度に建屋の開口部から専用輸送容器「キャスク」に燃料を詰めて運び出しを始め、 31年までに全燃料を取り出す計画だ。
取り出し用の構台を建て、 燃料取り扱い設備を設置し移動用レールも整備。20年度に建屋の開口部から専用輸送容器「キャスク」に燃料を詰めて運び出しを始め、 30年までに全燃料を取り出す計画だ。
原子炉内の核燃料が溶け落ち、コンクリートなどと混ざり固まった溶融核燃料 (デブリ)の本格取り出しが廃炉の最難関課題。福島第1原発では、1~3号機内に推計約880㌧が残る。 「デプリは極めて放射線量が高く、機械が壊れてしまう」と木元RC。15年前に比べ遠隔操作技術やロボットは格段に進歩したが「放射線に対応できる技術革新を活用していく必要がある」 とする。
デブリの試験採取に成功した2号機では26年度、圧阻力容器に調査機器を入れ内部を調べる。本格取り出しは30年代初頭に3号機から始めるとしていたが、27年度以降への先送りを決めた。す> 事前に12~15年の準備工程が必要となる。
高い線量に阻まれ内部調査が進まない中、東電が掲げる1年までの廃炉完了実現には疑問符がつきまとう。 デブリを取り出せても、その管理や解体した建屋の廃材など放射性廃棄物の処理は困難を極める。
木元RCは廃炉工程スジュールの重要性に触れた上で「放射性物質が飛散し、 また(住民が)避難するようなことは絶対避けねばならない」と強調。安全性を最優先に着実に進めて廃炉を完遂するとした。
伊方町の四国電力伊方原発では1、2号機の廃炉作業が進む。四電は25年11月に1号機廃止措置計画の第 2段階への変更を国の原子力規制委員会に申請。認可されれば管理区域内設備の解体撤去に着手する。廃炉に伴う放射性廃棄物は一時的に敷地内で保管するが、 最終処分方法は未定だ。
〔写真キャプション〕
使用済み燃料取り出しに向け、放射性物質飛散防止用の大型カバーをかけた福島第1原発1号機 =2月10日、福島県大熊町(日本記者クラブ代表撮影)
2026/03/07 愛媛新聞
㊥〔避難指示解除3年の双葉町〕
【戻れない人とつながりを】
東日本大震災の津波被害と東京電力福島第1原発事故の影響で、福島県ではピーク時に約16万5千人が避難していた。双葉町は国の避難指示が出た同県の自治体の中で最も長く全町民の避難が続いていたが、震災から11年5カ月後の202 2年8月30日、町の15%で避難指示が解除され、本格復興への歩みが始まった。
「人それぞれに事情はあるが、戻れなかったとしても町に関心を持ち続けてもらいたい」。伊沢史朗町長 (67)は震災後の15年を回想し、言葉にならない感情を絞り出す。町が県内外で催してきた避難中の町民との懇談会では「いつになったら戻れるんだ」と言われ続けた。避難指示の一部解除は「マイナスからの復興で、 100M走ならスタートしたばかり」だ。
双葉町には震災前、約7 千人が暮らしていたが、現在の居住人口は200人弱。その半数が移住者だ。 避難指示解除の遅れが、町民の生活拠点を避難先に固着させてしまった。「当時小さかった子どもたちも、 避難先自治体が古里になってしまった」と伊沢町長は嘆く。「若い世代に町とつながりを意識してもらうことが喫緊の課題だ」
避難指示の一部解除後に町がまず着手したのが生活環境の整備だった。10年以上無人状態の家屋は荒廃していた。避難先から町に戻る人の経済的負担を軽減しようと、町は災害公営住宅 88戸を整備。避難者には高齢者が多いことから医療面にも配慮し、週2~3日は基本的な医療が受けられる診療所も開設した。
スーパーのイオンも誘致。売り場は広くはないが、 約5千商品を取りそろえた。黒字で運営されているという。旧体育館跡地には、 居酒屋やカフェなど3店舗がオープン予定だ。
雇用創出にも注力。津波で被災した土地をかさ上げ り組みに強く期待する。 して企業誘致を進め、25社と協定を結び、飲食業や建設業など20社が事業を始めた。「働く場所は十分に保されつつある」と語るよ誘うに、復興への土台は徐々に固まってきている。
最大の課題は、町面積約85%を占める帰還困難区域の避難指示解除だ。高線量地域が残り、山際や広い農地の再生には除染と水利確保が不可欠。国主導の取り組みに強く期待する。
避難者とのつながりの維持にも腐心する。1月末時点で、愛媛に逃れた5人を確含め300以上の市区町村に6千人以上が避難してい徐々る。住所を把握している人には広報誌などを紙ベースで2700世帯に月2回送付。避難先の自治体とも連携し支援を続けている。
真の意味での復興とは ―。そう問われた伊沢町長はこう答えた。「本来の復興とは、避難した住民全員が帰還すること」。現実には意向調査で5割強が「戻らない」と回答している。 それでも「戻れない人々も (双葉町を)訪れた時に『良い町になった』と思えるような町づくりを目指したい」と前を向く。
双葉町と浪江町にまたがるエリアでは、復興に対すのる強い意志を国内外に発信しようと、国と県が「福島県復興祈念公園」の整備を進めている。近くの産業交流センター屋上に立つと 「追悼と鎮魂の丘」が見え、
その向こうには太平洋が広がっていた。未曽有の原子力災害は終わっていない。 復興への道のりは険しいが、福島は一歩ずつ進んでいる。 (山口裕之)
画像①キャプション
原発事故から1年5カ月後に避難指示が一部解除された双葉町の復興にむけた取り組みを語る伊沢史朗町長 =2月9日、同町役場
画像②
国と福島県が双葉、浪江両町にまたがるエリアに整備中の復興祈念公園。中央に「追悼と鎮魂の丘」 が見える =2月9日
㊦〔復興の芽生えの陰で〕
【除染土処理 議論進まず】
「「請戸(うけど)もの』を一度でいいから食べてみてほしい」。東京電力福島第1原発が立地する福島県双葉町の北隣、浪江町ですし店「頭、かわせ」を営む川瀬洋取締役()は、金そう願う。店では町内の請戸漁港で水揚げされた理物「諸戸もの」をメインに取り後っている。
暖流の魚剤と寒流のがぶつかる福島沖の魚は昔から「常磐もの」として知られ、中でも「請戸もの」 は高値で取り入れてきた。
しかし原発事故で状況は一変。高濃度の放射能汚染水が大量に海へ流れ出て、漁業者は沿岸部での操業を全面自粛するに至った。
川瀬さんは2024年から約1年、浪江町役場横の仮設商業共同店舗施設「まち・なみ・まるしぇ」のチャレンジショップに出店。
その後、25年1月にJR浪江駅前付近に今の店を開いた。相馬双葉漁協組合員でもあり、震災前から二本松市と浪江町で店を営んでいた。原発事故後に「地元海産物の取り扱いをやめようか」と葛藤したが、20年に請戸漁港での競りが再開すると最初に仲買人登録し、 魚の取り扱いを再開した。
「自分が目利きした地元の新鮮で良質な魚を安く届けたい」との信念からだった。
新店舗は今、浪江町の人たちでにぎわう。漁師との信頼関係を築き、胸を張って福島の魚を食べてほしいと願う川瀬さん。語り部活動も神力的にこなす。風評被害に長らく悩まされ、いまだ解消への答えは出ないが、それでも地元漁師の合言葉「むさんこ(がむしゃらに)行くべ!」を胸に、復興の道を走り続ける。
◇
自然災害と原子力災害に見舞われた福島県には、大きな課題が横たわる。 町と大熊町にまたがる中間貯蔵施設には、県内で出た除染士などを約1400万立方(東京ドーム約1杯分)保管している。国は5 年までの県外搬出を決めたが、議論が進んでいない。
環境省によると、同施設の敷地面積は約1600㌶で、25年末に全体の8割の用地取得契約が完了した。 うち1270㌶が民有地で、時が止まったかのように震災で被災したままの住宅地も残る。避難を強いられた人たちが、代々受け継いだ土地や家屋を手放すのは容易ではなく、決断までの苦悩が垣間見える。同省職員は「愛着ある土地を手放す住民の思いを受け継がねばならない」と話した。
15年3月に除染土などの受け入れを決めた一人、伊沢史朗双葉町長(67)は「苦渋の決断だった」と振り返る。受け入れ前、県内千カ所以上の仮置過に除染土や廃棄物を詰めた黒い袋が点在。集約は必然だったが、 全国の自治体はどこも引き受けに手を挙げなかった。 このままでは福島復興の信頼性に疑念を抱かせるとの判断だった。
政府は25年8月、県外最終処分に向けた工程表を取りまとめた。30年ごろに最終処分地の候補地選定を開始し、35年度をめどに処分方法などを具体化して候補地を選ぶとしている。放射性物質濃度が比較的低い土を「復興再生土」として全国の公共工事などで再利用する方針も掲げている。
「自分だけが良ければいいという感覚では、どんな問題も解決しない」と伊沢町長。被災地だけに犠牲を強いることがないよう、福 島から国民的な議論の高ま振り返りを訴え続けている。
〔写真キャプション〕
福島第1原発に隣接する除染土などの中間貯蔵施設。除染土の上を2㍍ほど覆土し、放射線物質の飛散防止処置している=2月9日、福島県大熊町
〈出典〉
愛媛新聞スクラップ
㊤2026/03/07
㊥2026/03/08
㊦2026/03/09




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