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2011/11/05

せんばが峠から成川へ

■私の生まれたのは近永町奈良。(現・鬼北町)
住所表示は奈良XXX番地であったが、小字の成川で呼ぶのが普通で、山奥であるが北川、牛の川と川の付く地名が多い。水分の地名もある。
成川渓谷の名は景勝地としても親しまれている。

成川には小学3年にあがる春までを過ごした。
その後、足は遠のいた。
血縁がないのが大きな理由だが、宇和島市から水分、成川、近永町(その後、広見町、鬼北町となる。)への道路事情が厳しかったことがある。成川にバスの通ったののも私が幼稚園に入った頃だったと思う。

厳しさの象徴として印象されている地名が、「せんばが峠」「鮎返」である。
「せんばが峠」の名は、千もの曲がりくねった峠道に由来するのではと思えるものだった。
「鮎返」は字句の通り、遡上する鮎が引き返さざるを得ない急峻な地点と云うことだ。

■そんな道路も現在はこんな感じに。


宇和島市街(手前)から鬼北町方向。国道320号線。
須賀川の支流、”正し川”に架かる”新折付橋”(昭和50年6月架設)
橋を渡り鬼北町方に少し進めば鮎返隧道があります。(昭和54年竣工)

昭和50年は結婚の年。
牛の川まで仲人さんをお迎えに行って、嫁宅まで向かったのですが、新橋は渡ったことになります・・
隧道はなかったんだな・・・ 記憶が残っていません^^;;

この後も、この道を走ったことがないと云うことはありません。
それなのに、いまだに急峻な「せんばが峠」「鮎返」が心象にあるのは・・

初めて車を留めて「レンズ」を覗いてみました。


橋から正し川の上流方を

橋から須賀川を。下方に須賀川ダム湖面が。
朝方の雨靄は大分薄れてきていましたが
心象を覆うモヤリは・・拭いきれません。


■成川の生家の西の畑に柿の木がありました。
生家を購入していただいた方が、町にでられたあと田舎暮らしを望まれた方にお貸ししていると云うのは耳にし、道路から覗う外観に造作の跡を見ることもあったのですが、柿の木はずっと変わらない姿でした。

その姿を見ると、成川に帰ってきたと言う感慨めいたものをもつこともありました。幼い子供たちに「あの柿の木でよく遊んだんだよ」そんな話をしたこともあります。
と言って、深い思い出が刻まれているというものでもないんですが。


きょう初めて車を留めて様子を見せてもらいました。




見上げるような巨木の印象だったのですが、存外に小ぶりに思えました。
やはり8歳の眼ゆえのものなのかな、それとも55年経ったんだから巨木は朽ちて二代目の木になったのかな、そんなことを思いながら裏に回ると、雨戸も畳も取り外されて無住の廃屋となっているのが一目瞭然でした。

■庭木もブッシュのように



と言って、
55年の歳月が過ぎているんだから・それ以上の感慨、感傷はなかったのですが

■一輪咲いたサザンカの花

・・・
まだ硬い蕾はたくさん付けていますが一輪だけ、まるで来訪者を迎えるように
すこし以上に感傷っぽくなってしまいました。

逃げ出したい気分になって畑にもどったら

■カタバミが黄色い花を。


■名も知らぬ紅い花。


無住の、鍬の入らぬ畑に健気に咲く
いや、無住、鍬の入らぬ畑だからこそ咲ききることができるのかも・・

また逃げ出そうとしたとき


講釈は無用だよ


花は唯、おのが花を咲かせる


その無心さが人の心を打つんじゃないかな


人は唯、おのが命を咲かしきることじゃないかな


そんな柿の声が聞こえてきた。



ひとつ捥いで齧ってみた。


昔と同じ渋柿だった


そのことが嬉しかった。


成川にて、手帳にこんなことを書いていたのを写す。




2011/11/01

【一宮さま(2)】旧・大工町に保存伝承されている”猿田彦ねり”(2)

【一宮様(1)】旧・大工町に保存伝承されている”猿田彦ねり”(1) 
に、大本敬久さん(愛媛県文化歴史博物館 専門学芸員)から次のコメントをいただきました。


猿田彦、伊達博が持っている江戸時代の絵巻にも描かれています。巫女の舞は他地域が昭和10年代に全国画一の浦安の舞を取り入れて古い巫女舞が駆逐されたのですが、大工町は古い巫女舞を受け継いでいる印象があります。近隣に類例がない巫女舞です。牛鬼や鹿踊りが注目されがちですが、大工町の練りは貴重だと思います。




巫女舞の写真を動画風にしたものです。(10月29日)








2011/10/31

【一宮さま(1)】旧・大工町に保存伝承されている”猿田彦ねり”

猿田彦ねり保存会(宇和島市)
(さるたひこねりほぞんかい)

 宇和島市宇和津彦神社は、伊達秀宗の治世に建立された由緒ある神社で、その秋季大祭には、多くのねりが市内を行列します。その際、愛宕町からは、天童・巫女を随えた猿田彦行列が出て、ねりの先導を務めます。猿田彦は日本神話の神で、天孫降臨の一行を出迎え、高千穂まで先導した位の高い神様です。猿田彦・天童・お稚児・巫女・太鼓のほか、傘や賽銭箱の道具もちが付き従い、絢爛なねり絵巻が広がります。あでやかな装束に身を包んだ巫女姿の少女が白羽二重のちはやを翻して、辻ごとに神楽舞いを披露します。
※ http://www.iyobank.co.jp/chiiki/n049.htm から引用させてもらいました。(太字は引用者)

高校卒業まで宇和島で過ごし、宇和津彦神社の氏子であったのですが、ねりを先導する猿田彦、巫女姿の舞を観るのは初めてでしたが、伝承されるものの輝きに酔いしれる思いがありました。
29日に撮影した写真を動画風に並べてみました。
 「猿田彦ねり」が伝承されているのは、愛宕町1丁目、2丁目です。
猿田彦を観るのは初めてでしたが、記憶に「大工町」の町名があります。

写真は、28日の宵宮に宇和津彦神社に奉納される際のものです。
染め抜きではなく、永年保存されていることが窺えました。

■大工町




旧町名の由来には、つぎのように記されています。

■大工町(だいくまち)

旧藩時代、宇和島藩御作事奉行配下の大工職人が多く居住していたので
この名がついたといわれている。
その後、職人が雑業者が居住し、さらに商業地となった


支える人々。
共振する街。
永遠なれ

2011/10/15

【鹿踊り・2】講演「東北地方と南予の縁」を聴講して 【国境・くにざかい】


【国境・くにざかい】


講演の中に、「国境・くにざかい」の表現はなかったけれど、keyになる言葉と云うか、気になると云うか、拘りたい。

【愛媛県における鹿踊り分布図】

分布図を見れば、分布は伊達宇和島藩の版図にほぼ一致するが、大洲藩領に持ち込まれているのが藩境の線に沿うように認められる。
藩境は現在の国境、いやそれ以上の分断線だったと言ってよいのでは。

藩の中心からすれば、辺境の地であろうが、分断線を接して影響しあうと云う意味で、文化交流の最前線、ひとつの中心と捉えて良いのでは。と、[1]に記した。


レジュメに、「宝暦年間 仙台藩 城・要害・所 所在分布図」が紹介されている。



恥ずかしながら、きょう見直すまで、仙台藩領が現在の岩手県南部にまで及んでいたことを知らなかった。

レジュメ余白のメモを見ると
東北に広く分布している鹿踊りが、仙台藩と北に接する南部藩との藩境をもって大きく二分されていることを書きつけている。

南部藩  〈幕系〉  花巻、遠野、釜石の地名も書き込んでいる

ーーーーーーーー

仙台藩  〈太鼓系.〉 江刺、水沢  

ササラ文化」


★★本筋から脱線しますが

「こちら(遠野、花巻)のシシ踊りは、仙台のシカ踊りとは違うんです!」
きつい口吻に感じられました。
と言ってもmixi友人とのコメントの遣り取りですから、声色を耳にしたのでも、拝顔したわけじゃありません。
花巻の「しし踊り」が銀座で披露されるとの(楽しそうな)書き込みに、「宇和島には伊達の殿様の入部と共に伝えられたという鹿踊りがありますよ」とレスしたのに対する返レスが上記の言葉でした。

ま、この事がその後の付き合いにどうこうあったわけでなく、これは失礼なことなんですが鹿踊りを「しし・」と発声されるのは訛りぐらいの認識でした。

でも、講演でこの地図を示された時に、憎しみとまでは言えなくても、それに近い叫びのようなものがあったんじゃないかなと思い出してしまったのです。

県政にも北部南部の対立が大きいとか、そんな話があったような、あるような・・
その境が、旧藩境なのかな・・

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端折り過ぎですが、文化の共有圏、それが共生の圏域。と、考えています。(思いたいのです。)

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と言って、周囲から全く隔絶されることはないので境を接しての「せめぎ合い」は不断に続く。
影響を与え、影響を受ける。これが文化を生む現場。辺境はその中心。

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【幕系・太鼓系】

幕系


【幕系】 五つの彩色(赤・青・白・黒・黄) → 五行(宇宙)を顕す


〈南予に見られる幕系〉

松野町松丸の鹿踊りが類似しているとの事

城川町窪野の「八つ鹿」は、幕系



















【太鼓系(ササラ文化)】では、菅(すが・白・麻)が五行をあらわす。

宇和島・裡町1丁目の「八つ鹿」















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南予の鹿踊りには、「幕系」「太鼓系」の二つの系統があるようだ。
共存と云うよりは併存・・

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10日に来演してもらった
鴬沢の「八つ鹿踊り」(宮城県栗原市)

現・宮城の北西に位置、岩手県境に近いが北部に接するのは旧仙台藩領、水沢、江刺があり
「太鼓系(ササラ文化)」に位置するが





異様なカシラは、「牛鬼」を連想させた。

いま、鮮やかな装束を見ていたら「獅子舞」との類似が感じられる。


【しか踊り・しし踊り】

10日の講習

東北の(南予にはない)鹿踊りの特徴として『死者供養』の色合いが濃い
庭踊り。墓踊り。




















その死者供養はヒトに限らず、「動物一般の供養」であった。

江刺、釜石の鉄砲猟師にも触れられた。

死者供養の側面が、カシラの勇壮さ、猛々しさとなった。

鴬沢「八つ鹿」のカシラ

























死者供養の側面が南予にないのは
宇和島入部とともに持ち込まれた「鹿踊り」が、総鎮守の一宮様に奉納され、練りモノとして定着したため。

(春日大社の鹿のような存在だろうか)

為に、勇壮さはなく、勇壮さ、悪霊(?)祓いは、「牛鬼」「唐ジジ」の分担することになった。























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五ツ鹿踊

2000年05月25日 | 八幡浜民俗誌


鹿踊は獅子舞の一種で、一人立ちで鹿頭をかぶり、胸に鞨鼓を抱え、幌幕で半身を覆って踊るもので、南予地方周辺の祭礼に登場する民俗芸能である。一人立ちの鹿踊(シシ舞)は、東北地方をはじめとする東日本に広く分布しているが、西日本では、福井県小浜地方と愛媛県南予地方周辺のみ見られる。南予地方の鹿踊は、江戸時代初期に、宇和島藩初代藩主伊達秀宗が宇和島に入部した折に、仙台から伝えられたと言われているもので、源流は東北地方にあり、仙台周辺の鹿踊と共通する点が多い。 鹿踊は、南予地方でも旧宇和島、吉田藩領内とそれに隣接する地域に分布しており、牛鬼と同様に、宇和島地方からその周辺に伝播したもので、約百箇所で踊られている。東限は大洲市、長浜町、肱川町であり、南限は高知県幡多郡になる。上浮穴郡に鹿踊は見られず、牛鬼よりは分布の範囲は狭いのが特徴である。 名称は「シカオドリ」、「シシオドリ」、「カノコ」等であるが、踊る人数によって「○ツ鹿」と呼ばれることが多い。 踊る人数は地域によって異なり、宇和島市や城川町窪野等では八人で踊る「八ツ鹿」、吉田町等では「七ツ鹿」、城川町下相等では「六ツ鹿」であるが、ほとんどは五人で踊る「五ツ鹿」である。八幡浜では舌田、川上、真穴に五ツ鹿踊があるが、昭和二〇年代までは五反田にも五ツ鹿踊があった。 南予地方の鹿踊は、江戸時代に仙台から宇和島に伝えられた当時は、八人で踊る「八ツ鹿」であったが、宇和島から各地に広がるうちに鹿の数が減り、現在は五人で踊る「五ツ鹿」が一般的となっているという俗説がある。 ところが、宇和島城下で踊られた鹿踊、つまり宇和島市裏町一丁目の鹿踊は、現在では「八ツ鹿」であるが、江戸時代末期成立の絵巻を見ると、五ツ鹿であり、明治時代以前には五ツ鹿であった。実際には大正時代に宇和島に摂政宮(後の昭和天皇)が来られた際に、台覧に供するために八ツ鹿に変容させているのである。つまり、南予地方の鹿踊は、仙台から伝えられた当時が何頭であったかは不明だが、少なくとも江戸時代後期には五ツ鹿が主流であり、これが宇和島から八幡浜地方をはじめ南予各地に伝播したと考えられる。 八ツ鹿踊が本流で、各地に伝えられるうちに五ツ鹿踊になったというのは、「創られた伝統」であり、実は史実とは異なるのである。


2000年05月25日 南海日日新聞掲載

(出典)

五ツ鹿踊 - 東北地方の博物館【地震関連】~ブログ「愛媛の伝承文化」より当面改題~:

'via Blog this'

※愛媛県歴博 専門学芸員 大本敬久 氏のブログから転載
※太字強調は引用者

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講演していただいた大本さんのブログから借用させていただきました。
かなり、ショッキングな締めになっております(笑)


わたしの「八つ鹿」への思い入れは、「裡町」へのそれと表裏一体なんです。
この一月に逝った父の出生地が裡町にあることを、仕舞のためにとった書類のなかに確認しました。
確認と書いたのは、一度だけ裡町の思い出を語ったことがあります。
おそらく通学路でのことだと思いますが、「辰野川沿いの傘屋さんの「渋」の匂いが好きだった。」
今となっては、私に語りかけたのか、それとも独り言だったのか・・判然とすることはできませんが

聴いてみたかったなぁ って思うんです。
「鹿踊りの思い出でもあったら聞きたいな」って。

これを、「父祖の地への想い」なんて書くと汗顔至極ですが、やっぱり、そんな思いがあるんです。


どうやら、南予には「旗系」「太鼓系」の鹿踊りが併存しているようです。
細部には、さまざまな影響の受け合いがあるのでしょう。

講師も指摘されましたが、仙台伊達藩の父祖の地は山形米沢。
和霊神社に祀られる山家清兵衛も山形の人。
伊達入部の総人数2000人。
仙台の鹿踊りが宇和島へ南予へ持ち込まれたのでないことは容易に推察できます。

入部した人それぞれの父祖の地への想い郷愁が、それぞれ様々な装いをもって発生していったのでは・・、そう云う形態のものも少なからずあるんじゃないかな・・・ こう思いたいだけなのかもしれませんが。

2011/10/10

【逍遥 宇和島・チャリで行く】旧町名標柱を巡る(3)〈点描/堀端通・木屋旅館)

私にとって、堀端通は宇和島の中心であった。
そう印象されている。

小3に上がる春に、山間の村から引っ越した先が市街の南であったせいもあって、商店街へ行くときも、六兵衛坂を越えて「赤い橋」のエンマ様へ行くときも、必ず堀端通を歩いたからかも知れない。
もっと旧い記憶には、山間の村から祖母に連れられて行った理容所も堀端通にあり~もちろん当時、町名は認識していなかったが、座らされた硬い皮製の椅子の感触が残っている。
現在、同所に理容所はないが9月の帰省の際に、代が変ってから場所を移されて営業されていることを聞いて、なぜかホッとした。
宇和島に住むようになったとき、母の勧めで通った日曜学校の「なかのちょう の教会」は堀端通の隣、中町にあった。
初めて習い事に通ったのは、べにばら画廊の絵画教室で現在も堀端通にある。

高校をでるまで、長閑な時間、日を宇和島ですごした。
高校を出て長い時間が過ぎた。
きょう宇和島を歩けば、様子は大きく変化している。
町名も変っている。
堀端通は堀端町に、中町の名はもう無くなっている。

でも、「なかのちょうの教会」の角に休めば、そこは中町であり、安藤コーヒーさんでお茶をいただけば、そこは堀端通だ。それが私の宇和島なのだ。


木屋旅館と大きな柳

この一月に父が逝って、その仕舞に納骨までの2ヶ月を宇和島で過ごしたとき、堀端の木屋旅館が閉められていることを知った。
その旅館のことは、旧い歴史があり著名な方々に愛された宿であると云うことくらいのことしか知らないのだが、宇和島の灯がひとつ消えた、そんな感慨があった。

それは、私の心には宇和島の中心である堀端通の象徴のひとつであろう木屋の店じまいに対する感傷であろうか・・いや、心象宇和島の朧さにたいする自責の思いと書いたほうが正確かもしれない・・

さておき、
わたしの木屋の印象は、玄関先にあった大きな柳の木であると言ってよい。
木屋についての知識は前述のほどのもので、玄関をくぐったこともないが、宿のまえはよく歩いた。
柳の前を歩いたし、その下で涼をとったことも、また立ちつくしたことも。

その柳も今はない。
枯れ死したのか、伐採されたのか、そしてそれが何時頃のことなのかも、なんの憶えもない。

この八月に新盆で帰宇したとき、市の予算で木屋旅館が再興されることを知った。
前を歩くと、外装工事は完了して内装工事が進められていた。
七月の完工予定が、東日本大震災の影響で九月初旬に遅延しているとのことだった。

秋の彼岸を宇和島で過ごそうと考えたひとつには、完工された木屋さんの前を歩き、出来れば玄関をくぐってみたいと思ったこともある。

9月23日、工事は終わっている様子でしたが、営業が開始されている息遣いも感じられませんでした。



案内標識が新設されていました。

■木屋旅館


明治44年創業。おくゆかしい店構えに
城下町の心温まるもてなしの宿として、
後藤新平、犬飼 毅、司馬遼太郎など、
名だたる著名人からも愛された旅館です。




当然と云うか、柳の姿はありません。
脳裏には大きな柳があるのですが。

■空の記憶

すこし歩きつかれたので、お隣の安藤さんで珈琲をいただきました。
装いが一新されています。
そのお隣の、絵画教室に通った紅バラ画廊さんも。
脳裏には、往時の姿がクッキリとあるんですが。


安藤コーヒーさんと木屋旅館の間から空が。


あの日と、
おなじ色・・

=====

以下、父の書棚にあった

『ふるさとの思い出 写真集 明治 大正 昭和 宇和島』(河野一水、松本麟一 編著)国書刊行会 発行

より、お借りしました。



■堀端通り


「大正初年のころの木屋」

城堀を埋めて生まれた町である。
柳の若葉に風が流れて、幌(ほろ)をつけたゴム輪の人力車が人待ち顔である。
明治四四年に開業した古い宿屋の木屋(きや)は今も続いて営業している。
ガス燈がともるころ、旅の艶歌師がこの町角に立って、バイオリンを奏(かな)で
「不如帰(ほととぎす)」「カチューシャ」の歌を歌って歌本を売っていた。
大正初年のころのことである。

(引用者註:本書は昭和58年7月20日発行)





目を瞑ると、柳に風がながれ緑がそよぐ光景が浮かびます

2011/09/20

【逍遥宇和島・チャリで行く】旧町名標柱を辿る(2)

いまも親しく愛称されている「六兵衛坂」も、「裡町」の小字だった・・
なんども登場している、この写真から続きを開始です。


写真を撮ったのは、先の8月26日。
Facebook友達の優子さんにお会いして、貴重なお話を伺いました(もう一つの六兵衛坂物語)。

しかし当日は、旧町名・裡町」の標柱に出会えませんでした。
亡父の語りの中に、辰野川の西岸筋を裡町と印象しすぎていたせいかも知れません。

前置きが長くなりますが、語りは次の一節です。

「川沿いに、傘屋さんがあって、渋の匂いが好きだった」

小学校への通学路だったのでしょうか。
生前にボソッと呟いたことがありました。
この二月に、亡父の仕舞に除籍謄本をとった時、生地が裡町であることを知りましたが

閑話休題
きょう、9/19旧町名標柱辿りの一番の目標は「裡町(うらまち)」です。

アーケード商店街を走りました。
この周辺には、なつかしい旧町名がたくさんあります。


【旧町名・袋町(ふくろまち)】


商店街と南予文化会館前を東(写真の右手方向。)へ走る道路との交叉点にありました。

旧・袋町の範囲

旧町名の由来は次の通りです。

袋町(ふくろまち)


 藩政時代、追手通・堅新町・本町と城堀に囲まれ、袋のように行き止まりになっていたので 
この名がついたといわれている。


お城山は目の前に見えます。




==

旧・袋町の標柱から東へ進むと、「旧・本町」の標柱がありました。


【旧町名・本町(ほんまち)】





旧・本町の範囲
町名の由来は次の通り記されています。

本町(ほんまち)


 旧藩時代、城下の町屋の中心で一丁目から五丁目まであった。
「本」とは根本の意で、商業地の中核として発展した。


旧・本町標柱から城山方を
==

東へ進むと、すぐに辰野川を渡る「丸穂橋」へ出ます。
ここまで来ると、方向音痴の私も直感出来ました。裡町は、近くだ!

ありました(^O^)/

【旧町名・裡町(うらまち)】



旧・裡町の範囲と、名の由来は次のように刻まれています。

旧・裡町の範囲
裡町(うらまち)


 裏町とも書く。
 本町に対して裏の町という意味で、旧藩時代には北の番所が置かれていた。
一丁目から五丁目まであり、小字の六兵衛坂は通称として現在も残っている。


標柱から城山方(西)の景。




長い営みが刻まれた町名・・


名前は消されても記憶は残ります。


   いや、遺さなければいけない。忘れてはいけないモノがある。

しばし佇み、煙草を一服させてもらいました。


===
旧・裡町の標柱から東へすこし行くと、青い橋、丸穂橋(まるほはし)に出ます。

西方を見ると、お城山を見ることができます。


南方、辰野川の上流両岸が、旧北町。


西岸は桜並木になっています。

丸穂橋の辺り
このあとは、下流方へと標柱を求めてチャリを走らせたのですが、レポは次回と云うことにいたします。

【逍遥宇和島・チャリで行く】旧町名の標柱を辿る(1)

宇和島市内の町名が可なり大きく変更されたのは、高校を卒業したS41だったと記憶してます。

宇和島の家のある薬研堀も佐伯町2丁目に改称されました。
















行政上の効率化などの要因があったのでしょうが、新町名に、(なんで?)と頭を捻ったものがあったような、そんな記憶があります。そして、
なにか大切なモノが薄れてしまっていくような・・そんな思いも。

【旧町名・薬研堀(やげんぼり)】

道路向かいは天赦園

標柱には、旧町の範囲、名の由来が刻まれています。

旧・薬研堀の範囲

標柱から西方を。

由来には次のように記されています。

薬研堀(やげんぼり)


 旧藩時代、浜御殿の南に位置するこの地には堀や馬場があった。
その堀や馬場が薬研に似ていたので  この名がついたといわれている。


==


標柱から西方、小さく見える青信号はR56・文教町。
右手(北)に城南中学校。南、左手に明倫小学校。
まっすぐ行くと、宇和島南中等教育学校。

北方向にはお城山が望めます。





【旧町名・富澤町(とみざわちょう)】

神田川の北河岸
佐伯町1丁目から東へ。古い家並に瀟洒な建て物がならぶ住宅地。
神田川が見えてくるところに標柱が建てられています。
「勧進橋」から少し下流方になります。

夫婦でしょうか、恋人同士でしょうか、ペアの鴨が游んでいました。















旧・富澤町の範囲
町名の由来には次のように記されています。

富澤町(とみざわちょう)


 旧藩時代、御典医冨澤氏が居住していたので この名がついたといわれている。
かつてシーボルトの娘イネが、村田蔵六の指導を受けるため居住した町ともいわれている。

==

かんばらどおり(鎌原通り)は、この辺じゃなかったかな・・
大橋通り大石町は・・と歩きまわりましたが、きょう(9/19)は標柱に出合えませんでした。

現在の京町から北方、お城山を。
「なかのちょうの教会」も見えます。
なかのちょう、広小路・・。


《なかのちょう の教会》
正式名称は、「日本キリスト教団 宇和島中町教会」。
なかのちょう の教会》と書いたのは、そう呼び親しんでいたことが印象されているからです。
山間の村から小3のときに引っ越してきて、母の勧めで日曜学級に通うようになったとき、「なかのちょうの教会に行こうか」と言われたのが名を知った初めでした。

きょうまで、表記は「中ノ町」だと思いこんでいました(笑)が、標柱にはどう刻まれているのか、また歩きます。


すっかり様子も変った街並みを歩きながら、旧町名を口ずさむと、
うすれた記憶が彩色されてくるような、そんな感じがするんです。


さぁ、旧町名・裡町(うらまち)の標柱を探します。
と言うか、標柱に見つけてもらえるようチャリを走らせます(^^)/