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2026/03/14

東日本大震災15年〈福島は今〉

東日本大震災15年
〈福 島  は  今〉
   2011 −  2026

  

東日本大震災による東京電力福島第1原発事故の発生から間もなく15年になる。2月上旬に日本記者クラブ取材団の一員として、廃炉作業が進む同原発や、除染土を保管する中間貯蔵施設が立地する福島県双葉町などの被災地を訪れた。廃炉への道のりや復興途上にある福島の現在地、除染土の県外処分といった山積する課題について報告する。    (山口裕之)


㊤ 〔原発廃炉作業〕

【高線量51年完了に疑問符】


2011年3月11日、福島第1原発は約15の津波に襲われ浸水。電源を喪失し1~3号機で炉心溶融(メルトダウン)が起きた。1、 3、4号機は原子炉建屋が水素爆発。大量の放射性物質が放出された。


敷地内は現在もほぼ放射線管理区域で、環境線量を下げる対策を講じている。 「R(レッド) ゾーン」の 1~4号機の建屋周辺は、 防護装備として服の上につなぎのカバーオール、耐水性のあるフード付き上着を重ね着し、全面マスクを着用する。各エリアで被ばく線量を管理しながら、1日約5千人の作業員が働く。


取材団は福島県富岡町の東電廃炉資料館からバスで福島第1原発へ。事故後、バリケードで封鎖されていた国道6号を進むと、沿道の線量計が目に入る。富岡町では毎時0・2267 (東京都内の約5~6倍)、 大熊町では1・107 と、原発に近づくにつれ線量が増す。大型店舗が並んでいた通りは、解体が進み更地が目立つ。


原子炉建屋が見渡せる高台でバスを降りた。東電の木元崇宏リスクコミュニケーター(RC、50)が、放射性物質の飛散を防ぐ大型カバーが設置された1号機を指さす。「カバーが開いている所の真下に使用済み燃料プールがあり、その上のがれきをまず撤去する」


1、2号機の燃料プールには使用済み燃料約千体が残ったまま。原子炉建屋から共用プールへの移送を急ぐが、高い線量が作業をむ。水素爆発を免れた2号機は建屋に大きな破損はなかったが、最上階の線量が極めて高く、内部での作業が困難だ。建屋南側に燃料取り出し用の構台を建て、 燃料取り扱い設備を設置し移動用レールも整備。20年度に建屋の開口部から専用輸送容器「キャスク」に燃料を詰めて運び出しを始め、 31年までに全燃料を取り出す計画だ。


取り出し用の構台を建て、 燃料取り扱い設備を設置し移動用レールも整備。20年度に建屋の開口部から専用輸送容器「キャスク」に燃料を詰めて運び出しを始め、 30年までに全燃料を取り出す計画だ。


原子炉内の核燃料が溶け落ち、コンクリートなどと混ざり固まった溶融核燃料 (デブリ)の本格取り出しが廃炉の最難関課題。福島第1原発では、1~3号機内に推計約880㌧が残る。 「デプリは極めて放射線量が高く、機械が壊れてしまう」と木元RC。15年前に比べ遠隔操作技術やロボットは格段に進歩したが「放射線に対応できる技術革新を活用していく必要がある」 とする。


デブリの試験採取に成功した2号機では26年度、圧阻力容器に調査機器を入れ内部を調べる。本格取り出しは30年代初頭に3号機から始めるとしていたが、27年度以降への先送りを決めた。す> 事前に12~15年の準備工程が必要となる。


高い線量に阻まれ内部調査が進まない中、東電が掲げる1年までの廃炉完了実現には疑問符がつきまとう。 デブリを取り出せても、その管理や解体した建屋の廃材など放射性廃棄物の処理は困難を極める。 


木元RCは廃炉工程スジュールの重要性に触れた上で「放射性物質が飛散し、 また(住民が)避難するようなことは絶対避けねばならない」と強調。安全性を最優先に着実に進めて廃炉を完遂するとした。


伊方町の四国電力伊方原発では1、2号機の廃炉作業が進む。四電は25年11月に1号機廃止措置計画の第 2段階への変更を国の原子力規制委員会に申請。認可されれば管理区域内設備の解体撤去に着手する。廃炉に伴う放射性廃棄物は一時的に敷地内で保管するが、 最終処分方法は未定だ。 


〔写真キャプション〕

使用済み燃料取り出しに向け、放射性物質飛散防止用の大型カバーをかけた福島第1原発1号機   =2月10日、福島県大熊町(日本記者クラブ代表撮影)


2026/03/07 愛媛新聞



㊥〔避難指示解除3年の双葉町〕

【戻れない人とつながりを】


東日本大震災の津波被害と東京電力福島第1原発事故の影響で、福島県ではピーク時に約16万5千人が避難していた。双葉町は国の避難指示が出た同県の自治体の中で最も長く全町民の避難が続いていたが、震災から11年5カ月後の202 2年8月30日、町の15%で避難指示が解除され、本格復興への歩みが始まった。


「人それぞれに事情はあるが、戻れなかったとしても町に関心を持ち続けてもらいたい」。伊沢史朗町長 (67)は震災後の15年を回想し、言葉にならない感情を絞り出す。町が県内外で催してきた避難中の町民との懇談会では「いつになったら戻れるんだ」と言われ続けた。避難指示の一部解除は「マイナスからの復興で、 100M走ならスタートしたばかり」だ。


双葉町には震災前、約7 千人が暮らしていたが、現在の居住人口は200人弱。その半数が移住者だ。 避難指示解除の遅れが、町民の生活拠点を避難先に固着させてしまった。「当時小さかった子どもたちも、 避難先自治体が古里になってしまった」と伊沢町長は嘆く。「若い世代に町とつながりを意識してもらうことが喫緊の課題だ」


避難指示の一部解除後に町がまず着手したのが生活環境の整備だった。10年以上無人状態の家屋は荒廃していた。避難先から町に戻る人の経済的負担を軽減しようと、町は災害公営住宅 88戸を整備。避難者には高齢者が多いことから医療面にも配慮し、週2~3日は基本的な医療が受けられる診療所も開設した。


スーパーのイオンも誘致。売り場は広くはないが、 約5千商品を取りそろえた。黒字で運営されているという。旧体育館跡地には、 居酒屋やカフェなど3店舗がオープン予定だ。


雇用創出にも注力。津波で被災した土地をかさ上げ り組みに強く期待する。 して企業誘致を進め、25社と協定を結び、飲食業や建設業など20社が事業を始めた。「働く場所は十分に保されつつある」と語るよ誘うに、復興への土台は徐々に固まってきている。


最大の課題は、町面積約85%を占める帰還困難区域の避難指示解除だ。高線量地域が残り、山際や広い農地の再生には除染と水利確保が不可欠。国主導の取り組みに強く期待する。


避難者とのつながりの維持にも腐心する。1月末時点で、愛媛に逃れた5人を確含め300以上の市区町村に6千人以上が避難してい徐々る。住所を把握している人には広報誌などを紙ベースで2700世帯に月2回送付。避難先の自治体とも連携し支援を続けている。


真の意味での復興とは ―。そう問われた伊沢町長はこう答えた。「本来の復興とは、避難した住民全員が帰還すること」。現実には意向調査で5割強が「戻らない」と回答している。 それでも「戻れない人々も (双葉町を)訪れた時に『良い町になった』と思えるような町づくりを目指したい」と前を向く。


双葉町と浪江町にまたがるエリアでは、復興に対すのる強い意志を国内外に発信しようと、国と県が「福島県復興祈念公園」の整備を進めている。近くの産業交流センター屋上に立つと 「追悼と鎮魂の丘」が見え、

その向こうには太平洋が広がっていた。未曽有の原子力災害は終わっていない。 復興への道のりは険しいが、福島は一歩ずつ進んでいる。 (山口裕之)


画像①キャプション

原発事故から1年5カ月後に避難指示が一部解除された双葉町の復興にむけた取り組みを語る伊沢史朗町長 =2月9日、同町役場


画像②

国と福島県が双葉、浪江両町にまたがるエリアに整備中の復興祈念公園。中央に「追悼と鎮魂の丘」 が見える =2月9日



㊦〔復興の芽生えの陰で〕

【除染土処理 議論進まず】



「「請戸(うけど)もの』を一度でいいから食べてみてほしい」。東京電力福島第1原発が立地する福島県双葉町の北隣、浪江町ですし店「頭、かわせ」を営む川瀬洋取締役()は、金そう願う。店では町内の請戸漁港で水揚げされた理物「諸戸もの」をメインに取り後っている。


暖流の魚剤と寒流のがぶつかる福島沖の魚は昔から「常磐もの」として知られ、中でも「請戸もの」 は高値で取り入れてきた。


しかし原発事故で状況は一変。高濃度の放射能汚染水が大量に海へ流れ出て、漁業者は沿岸部での操業を全面自粛するに至った。


川瀬さんは2024年から約1年、浪江町役場横の仮設商業共同店舗施設「まち・なみ・まるしぇ」のチャレンジショップに出店。

その後、25年1月にJR浪江駅前付近に今の店を開いた。相馬双葉漁協組合員でもあり、震災前から二本松市と浪江町で店を営んでいた。原発事故後に「地元海産物の取り扱いをやめようか」と葛藤したが、20年に請戸漁港での競りが再開すると最初に仲買人登録し、 魚の取り扱いを再開した。


「自分が目利きした地元の新鮮で良質な魚を安く届けたい」との信念からだった。 


新店舗は今、浪江町の人たちでにぎわう。漁師との信頼関係を築き、胸を張って福島の魚を食べてほしいと願う川瀬さん。語り部活動も神力的にこなす。風評被害に長らく悩まされ、いまだ解消への答えは出ないが、それでも地元漁師の合言葉「むさんこ(がむしゃらに)行くべ!」を胸に、復興の道を走り続ける。

     ◇

自然災害と原子力災害に見舞われた福島県には、大きな課題が横たわる。 町と大熊町にまたがる中間貯蔵施設には、県内で出た除染士などを約1400万立方(東京ドーム約1杯分)保管している。国は5 年までの県外搬出を決めたが、議論が進んでいない。


環境省によると、同施設の敷地面積は約1600㌶で、25年末に全体の8割の用地取得契約が完了した。 うち1270㌶が民有地で、時が止まったかのように震災で被災したままの住宅地も残る。避難を強いられた人たちが、代々受け継いだ土地や家屋を手放すのは容易ではなく、決断までの苦悩が垣間見える。同省職員は「愛着ある土地を手放す住民の思いを受け継がねばならない」と話した。


15年3月に除染土などの受け入れを決めた一人、伊沢史朗双葉町長(67)は「苦渋の決断だった」と振り返る。受け入れ前、県内千カ所以上の仮置過に除染土や廃棄物を詰めた黒い袋が点在。集約は必然だったが、 全国の自治体はどこも引き受けに手を挙げなかった。 このままでは福島復興の信頼性に疑念を抱かせるとの判断だった。


政府は25年8月、県外最終処分に向けた工程表を取りまとめた。30年ごろに最終処分地の候補地選定を開始し、35年度をめどに処分方法などを具体化して候補地を選ぶとしている。放射性物質濃度が比較的低い土を「復興再生土」として全国の公共工事などで再利用する方針も掲げている。


「自分だけが良ければいいという感覚では、どんな問題も解決しない」と伊沢町長。被災地だけに犠牲を強いることがないよう、福 島から国民的な議論の高ま振り返りを訴え続けている。


〔写真キャプション〕

福島第1原発に隣接する除染土などの中間貯蔵施設。除染土の上を2㍍ほど覆土し、放射線物質の飛散防止処置している=2月9日、福島県大熊町


〈出典〉

愛媛新聞スクラップ

㊤2026/03/07

㊥2026/03/08

㊦2026/03/09

2026/02/13

【2/13朝のふれあい読書】

 読み合う読み愛備忘メモ

【2/13朝のふれあい読書】

4年生の子たちと


手書きの『鬼北町の鬼新聞』を見せて



〔全国でたった一つ「鬼」のまちのひみつ〕

・みなさんは #鬼 と聞いて思い浮かぶのは「こわい?」「悪?」

・鬼北町の鬼はすこし違います。


・町の南に鬼ヶ城山系がある(鬼ヶ城山系の北側)ところから鬼北地方となっていますが、それだけでなく「鬼王段三郎」と言う強い武士の伝説が隠されていました。

・「曽我物語」の曽我兄弟の家来

で身長が180㌢以上もある大男で力持ちでした。

・大岩を投げ飛ばして、落ちたところに「等妙寺」が建てられました。…

・鬼北町の鬼は山の神さまで信仰の対象でした。

・みんなを守ってくれる強いパワーを持ったものを「おに」と呼んで尊敬していたんです。


▽この新聞を書いたのは、みなと同じ4年生のひとです。


きょうみんなと読む紙芝居は、新聞に書かれていた伝説にもとに作られたものです。


紙芝居〔理玉和尚さんと等妙寺〕



読む


〔おに〕のイメージに違ったものが感じられて来ませんか


▽きょう、みんなにいちばん紹介したかったのは、同じ4年生のこが「なんで鬼ってついた町名なんだろう?」ってところから、いろいろ調べていったところ

(もう一つの「等妙寺新聞」も紹介)


▽じつは紙芝居が出来上がったのは最近で、去年と言っても12月6日に披露されたもので、なんと!!朗読させてもらったのがわたし、こうちゃん❣(大歓声^^;)


このときに、新聞を作った○○くんたちに知り合って、こんど朝のふれあい読書で4年生と読み合えるときには是非に紹介させてもらいたいと思ったンですよ。歓声


自分の住んでる街をたいせつにするキッカケになればうれしい


▽時間延長になったけど


「桃から生まれた桃太郎の鬼ヶ島征伐(鬼は悪もの)」の話も


『芥川龍之介の桃太郎』

お笑いコンビ「見取り図」のリリーさんが描いた『ものからうまれた おにたろう』


「鬼は決して悪ではない」と教えてくれる本にもなってます。


いろんな本、絵本に親しむようにしたいよね


そんな感じで締めることができました(と思えてうれしい😅)







2024/06/27

松登

 突然ですが

【栃若時代】

千秋楽に全勝対決

1960(昭和35)年3月20日、「名人横綱」栃錦と「土俵の鬼」若乃花(初代)が、史上初の横綱同士の千秋楽全勝対決。若乃花が栃錦を寄り切った。テレビの普及とともに大相撲の黄金期「栃若時代」を築いた。優勝はともに10回。全勝1回、連勝記録も同じ24。対戦成績は栃錦の19勝15敗。

https://www.47news.jp/5993366.html


昭和35年3月と言えば、わたしが小6に進級する春休みの時のことになります。

時代時間の感覚は全く無いんですが、白黒テレビの画面の前に釘付けになっていた事はハッキリと記憶に焼き付いてます。

ちょっと本題から逸れますが   

下の番付表をみると、西張出関脇に柏戸、東前頭4枚目に大鵬の名が載っています。後に、ともに横綱となり【柏鵬時代】と謳われる時代を築かれることとなります。大相撲人気絶頂の時代と言っていいかもです。先に参照の記事には黄金時代とあります。

で、ここで確認したいのは、西前頭8枚目の松登です。(昭和35年春場所。6勝9敗の負け越し。)

大相撲黄金時代の頂点と言ってよい栃若と前頭8枚目で負け越しの松登と。


しかし実は、松登も大関の地位まで出世した力士です。データに拠れば、【昭和31年1月場所〜昭和33年11月場所】までの大関在位とあります。

私の年齢に重ねてみたら、小1の3学期に大関に昇進されたと言うこと。

もう少し具体的に書けば、【近永町(現在は鬼北町)奈良成川に生活していた近永西小学校の1年生の時です。】

昇進前の番付成績

昭和30年9月場所(秋場所)


松登は東関脇で、13勝2敗。準優勝。

この好成績をもって大関の位に昇進したのです。現在でも大関候補は現れても昇進となると狭き門のようです。参考までに、現在の大関昇進基準は三役(関脇、小結)での3場所合計の勝ち星33勝が目安だと言われています。

栃若の位をみると、栃錦が東横綱、若ノ花が西大関です。

この事実に、わたしの記憶がガタガタと崩れる想いあり^^;

わたしは、栃若は松登を追い越していった力士だと‥何の根拠もなしに今日の今日まで思い込んでました^^;

生年月日と初土俵年場所を見てみると、

生年月は、松登(1924年7月生)栃錦(1925年2月生)若ノ花(1928年3月生)の順で、

初土俵は、栃錦(1939年1月場所)松登(1941年1月場所)若ノ花(1946年11月場所)の順。

同世代の力士であったと言えます。

さらに長じてのことについては

栃若時代を築いた栃錦、若ノ花は相撲協会の理事長に就任されたことは大相撲ファンでない方にも周知されてるんじゃないでしょうか。

一方、松登は位も前頭に陥落して人知れず相撲界を去られたと、思っていました。が、今回の急ぎググりで、引退後は振分親方となり後には所属部屋の大山親方となられたことを知ったことに、不思議な安堵感を持つことができました😊


さてさて!なにゆえに斯様な運びとなったのか❓

先に松登関も大関昇進のところに書きました

【近永町(現在は鬼北町)奈良成川に生活していた近永西小学校の1年生の時です。】


【成川の子ども相撲】

当時、子ども相撲が流行ってました。

と言って村の行事とかではなく、Mあんちゃんが中心の子どもの世界に作られた相撲場所です。

当時は小学校にも「農繁期の休み」がありました。おぼろですが、その時期に相撲を取っていたように思います。

そこで、成績によって番付けが決められるのですが、大相撲の番付けに照合した四股名をいただいていた。と記憶しています。

そして、わたしが頂戴したの四股名が松登です。

わたしの記憶には「わたしは成川場所の大関」「かなり強かった」と焼き付いてます(^o^)


そして🎶

成川子ども相撲にも、栃錦、若ノ花が居たのです。

この事は、最近知ったんですが

先月5月21日、松山でです!

成川から宇和島へ転居して67年

道路向かいの一年上のEさんは栃錦

Eさん方の東隣りの同級生のSくんが若ノ花だったんです😊


わたしは、小3に進級する春に近永町から宇和島市に引っ越しをしました。

全校生が100名を超えるくらいで、団塊の世代と呼ばれるようになる我々同級生が30名と言う小さい小学校から転校したのは、同期で300名を超えると言う町の小学校でした。

驚くことばっかだったよな

そんな思いが残滓となっていますが、

アレは何年生のときやったか(3年生だったと思うけどハッキリしません)

宇和島市へ高砂一門



2015/03/20

四国へんろ 【第四十一番 稲荷山龍光寺】

2015.03.13
古くから「お稲荷さん」と親しまれている稲荷山龍光寺(宇和島市三間町戸雁)を、お詣りしました。6、7歳のころ祖母と参拝して以来…60年振りになります😅


※「四国へんろ風景」伊藤太一 (読売新聞社刊)p94 を写した地図です。


▪️標柱


▪️鳥居

▪️参道


▪️参道の先は五十余の石段。正面に【赤い鳥居】が見えます。


▪️石段を登ると、右に「大師堂」、左に「本堂」があります。

▪️大師堂

▪️本堂




▪️赤い鳥居

▪️さらに石段があり、上ると【稲荷神社】です。

▪️神殿



▪️稲荷神社から龍光寺本堂


▪️第四十二番仏木寺への案内(あるき遍路道


▪️▪️神仏同居する霊地
古くから「お稲荷さん」と親しまれている龍光寺は、四国霊場の総鎮守に定められた神仏同居の霊地です。

==参考==
「民家の間から続く長い石段の先に、赤い鳥居がひときわ目を引く龍光寺。稲荷神社と共に在る第41番札所です。小高い山頂からは、穀倉地帯である三間平野を見渡せます。 古くから「お稲荷さん」と呼ばれ広く親しまれているこの寺の由来は、弘法大師が 巡錫じゅんしゃくした際の逸話に伝えられてます。

大同二年(807年)弘法大師がこの地に巡錫した際、白髪の翁が現れて「吾この地に往して守り庶民を利益せん」と告げました。弘法大師は日頃信仰していた稲荷明神の化身と感じ、その尊像を刻み堂塔を建て丁重に安置、稲荷山龍光寺として四国霊場の総鎮守とされたのです。」