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2011/03/07

参考 西村賢太『苦役列車』書評  2件

新潮社 波 2月号
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/303232.html




リアル貧困と八〇年代「フリーター」



貧困と怠惰、汚濁と無頼に染まった世界である。この著者のほかに、これほど堕ちるに任せた惨憺たる青春を 誰が筆にできようか。同情を催すよりもその遠慮のなさ、えげつなさで良識が吹っ切れて、いっそ己の弱さ醜さを心ゆくまで見せ切るエンタテインメントと感じ られてしまう。それが西村賢太の文学世界である。
北町貫多は中学校を出て以来、肉親から離れて安アパート住まいをしながら、五千五百円の日雇い収入に時折すがるルーズな生活を続けている。将来の目標も 希望もなく、買淫のために貯蓄する以外は安酒を慰めとする彼は、まだ十九歳。恋人はむろん友人も皆無の彼の生活に、珍しく親交を深める同年の男が現れる。 専門学校生だという好青年の日下部と会うために貫多は連日働き、連れ立って暖簾を潜りもするようになる。どん底の青春時代をひととき暖めた陽射しのような 思い出は、だが貫多の抱えた底なしの劣等感と飢餓によって汚され、破られてしまう。まずは返す見込みもない借金を申し入れ、次いで日下部に大学生の恋人が いることを知るや妬ましさと悔しさに駆られ、三人で野球観戦に出かけるものの、帰途の酒場で管を巻いて汚らしく恋人たちを罵倒してしまう。
爽やかな青年との得がたい友情を、この貫多はいずれ壊してしまうのだろうという予測が、案の定カタストロフィに至るドラマを読者は堪能できる。しかし読後に蟠る悲しみの複雑さは、じつは時代背景と無関係ではない。
貫多が日下部を評判のアクション映画『コブラ』に誘う場面がある。それに従うなら、この作品の時代背景は一九八六年と思しい。円高時代が到来し「新人 類」が持てはやされ、「ニューファミリー」なる言葉がメディアに躍った時期である。若者向けの雑誌があまた出揃い、多様な娯楽と商品購買欲を焚きつけてい た。若者たちの労働意識はその頃から「フリーター」志向となった。日下部は過酷でも日当の高いバイト先として日雇い労働を選択している。そして彼の恋人は 上北沢のワンルームに住み、マスコミ関係への就職を目指している。ニューアカの言説や華やかなマスコミ業種に憧れながら、時には自由選択として「フリー ター」になりもする彼らに比べて、貫多の方はといえば、選択の余地のないリアル貧困であり、最底辺生活者なのである。「所詮、自分は何を努力し、どう歯を 食いしばって人並みな人生コースを目指そうと、性犯罪者の伜だと知られれば途端にどの道だって閉ざされよう」との意識が、彼の未来をこれまでいつも黒く塗 りつぶしてきたのである。つまりこの小説のカタストロフィの発火点は、最底辺の労働現場を舞台にしつつ、そこで八〇年代的なフリーターの青春と、不幸な自 分史を背負ったリアル貧困とが接触してしまった点にある。そこに我々は、さらに四半世紀後の今日においてワーキングプアが直面する格差社会の悲惨を重ね映 すことができるだろう。
格差社会の底辺者というスタンスは、本書所収のもう一編「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」にも通底している。ここで新人作家である貫多は川端康成文学賞 の候補となっている。文壇で然るべき地位を占めたいという身を焼くような願望と、エリートやインテリのあまたひしめく文壇に額ずくことへの屈辱と憤怒が貫 多を引き裂いている。そんな彼が、今は誰も知る者もない大正時代の文芸評論家、堀木克三の晩年の著作――専門店では高額の値がついている『暮れゆく公園』 と思しい――を、思いがけず均一棚から入手するのだが、不遇の評論家の「一寸顔を背けたくなる程に痛い」落ちぶれ方が、やがて自らの侘しかるべき晩年に重 ねられていくのである。かくも惨めな「負け犬」であることを熱源とする西村文学が、めでたく芥川賞を受賞してしまった。今後、いかなる未来を辿るのだろう か。刮目して見届けたいものだ。







(しみず・よしのり 文芸評論家)




(2011年2月14日  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20110214-OYT8T00225.htm

無産、無資格、無器用

無産、無資格、無器用

ロバート・キャンベル



北町貫多。一見して作者の影が色濃く主人公の上に落ちているのは分かる。
また「根が全くの骨惜しみにできてる」から、派遣現場でも、場末の下宿生活でも、何一つ貫くことができないので皮肉なネーミングも(うなず)け る。人生の起点から無産、無資格、無器用ときているから前途が完璧に塞がりきった薄ら寒い日々に流されるだけの人生だ。「貫多」――勝手な妄想だが字面を 眺めているうちに毎日、昼休みに倉庫街の岸壁に座って足をだらりと川へ垂らしながら箱弁を食う彼の姿を、連想する。あるいは操作が覚え切れず挫折する フォークリフト車の、前から見た格好も何となく「貫多」の字に似てはいないだろうか。以下一字一句、これほど豊かなイメージを喚起させる小説は(まれ)である。
ストーリーに静かなうねりはある。例の岸壁で打ちとけ合った唯一の友人、専門学校生の日下部の影響もあって少しばかりやる気を出す。しかし九州か らぽっと出の日下部が次々と有利な資格を手に入れ手当を増やし、その金で大学生仲間と付き合って彼女までゲットしてみると、「持っている」ものが何一つな い貫多は失速する。若者として振る舞えなければ最後、バイトで運ばれる荷物同然に色も声も届かない暗い場所に追いやられていく。
バブル直前の昭和61年が舞台である。しかし物語を書き起こすのは、現在に生きる三人称の謎の語り手だ。謎と感じるのは、言葉遣いが重厚で、地の 文がまるで戦前の小説を読むような時代がかったトーンを保っていて、四半世紀前の貫多自身がとうてい操れそうになかった文学的な日本語の中で彼のむちゃぶ りと失意を引き受けることになるのである。全知の語り手が誰か、謎は最後の数行で分かるが、巧みに作り上げられる彼の目線は覚悟にも似た愛情を筆に()めて、後見人のように貫多の現実をあぶり出す。派遣労働という悪循環に「手もなくすっぽり()まり込む恰好(かっこう)」がいっそうリアルで(すさ)まじい。

2011/03/02

レトロに彩りあり・宇和島・memo

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【ヨカレン橋】板島橋は、たちまち「予科練橋」と通称するまでになった。いまでも、通称のほうが通りが良い・・・ 『板島橋』(木下博民)P36 





(来村川の)左岸の集落を保手というところから、町の人々は、この辺りを来村川と呼ばず、【保手川】と言い慣わしている。 『板島橋』(木下博民)P15 写真・平成10年頃の宇和島港P10 



2011/03/01

レトロに彩りあり・宇和島②しろうお、四つ手網

二週間振りの松山から戻った2月17日の夜、チャイムが鳴った。
出ると、お隣の散髪屋のご主人が、「食べなはるか。」と差し出したビニール袋に、

(しろ・うお)・・いや、(しら・うお)だったかな?
ボールに移し入れると、
元気に跳ねながら泳ぎ回る。

まずは記念にと携帯カメラをむけたが・・

ま、透明なんだから(笑)






先ずは、早春の味覚~躍り食い~と、モズクの三杯酢にグイ呑み一杯分ほどを入れてみたが・・
エイッとモズクのヌルヌルに任せて一気飲み~このノド越しぞ粋!?(笑)

しかし、幼い記憶には残っている。
母ちゃんの造ってくれる、澄し汁は美味くて大好物だった。

湯掻くと白くなると思っていたが、翌朝見てみると3割ほどはボールの底に白く沈んでいた。

「川が白くなるんよ」~そんな声が浮かんできた。

神田川(じんでんがわ)と明倫(めいりん)橋

神田川は宇和島の南部(旧市の)を東から西へ宇和島港へ流れ込む。

R56号線が南北に走り、明倫橋をまたぐ。

写真右手の白色の壁は明倫小学校。
山奥の小さい小学校から3年生になる春転校してきた。

写真奥手が河口で、明倫橋の辺りから川幅が広くなる。






















水量は少なく、普段はクルブシまでくらいであった。
山奥育ちには、その 緩く浅い流れが驚きでもあったが、それ以上に驚異的だったのは
満ち潮である。

流れが逆流遡上するのだから!(笑)
明倫橋から100mほどくらいまで満ちてきたように思う。
この辺りには、「石グロ」と呼ばれる石積みがあったが、ウナギ漁のためのものであった。いまは見ることは出来ない。

もう一つ消えた光景は、明倫小の南壁に沿う道路から、神田川に張り出すような形の木組みである。
早春のころになると、そこから竹で組まれた四つ手の網を川に沈めては跳ね上げる 漁が行われていた。

もう、見ることは出来なくなった景なのかな・・

それよりも、「しろうお」だったのかな? 「しらうお」だったのかな?
記憶は曖昧糢糊だ(笑)

二杯目の汁をいただいて、「そうだ。お隣さんに訊いてみよう!」
店の前に、ちょうど奥さんがいて声をかけると、「シラウオじゃなかったかしら?」

ドアを押すと二人のお客さんとご主人。
ご主人は、「シロウオじゃろ。シラウオとは別物よ。シロウオはハゼじゃけん。」とキッパリ(笑)
お客さんは、お二人とも、「う~ん。どっちじゃろか。」

きわめて曖昧である。
そう云えば、最近は宇和島のシロウオと言えば岩松である。(津島町岩松。現在は宇和島市に合併)~新聞にも「岩松のシロウオ漁」と取り上げられる。しかし地元の方は「シラウオ」と呼ぶのが大方のようである。

シロ・シラ談議は措いて、
ご主人から、ステキな情報をいただいた♪

「今度の日曜日は汐がエエけん(良いから)、漁が出るんじゃないかな」☆☆ジャ~ン♪

20日の朝。
寒い。汐も期待したほど大きくない・・が、チャリンコで出発。

妄想した明倫小学校沿いに漁の姿はない・・
隣接した南高(なんこう)沿いにも・・・ 2階の窓から小船からの四つ手網漁に眺め入ったものだが・・

南高の西端辺りで神田川と保手川が合流し川幅は一挙に100mを超す。板島橋も見えてくる。


『板島橋』~宇和島の予科練と平和への軌跡~
木下博民著 

父の書棚に。著者は父の友人。

読んでみよう。

板島橋から神田川上流方。
右手から保手川が合流。

(地図を見ると来村(くのむら)川と記されているが、記憶に残っている保手川と書いてます。)



























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 あっ!
板島橋を南に渡って保手川上流方に200mほどのところ。
(地図の表記は宇和島市保手1)














 四つ手!!

一寸も動かず流れに見入っておられて、声を掛けるのは憚れた。

離れたところからレンズで追っていると、何かが漲った。漲った。

四つ手網の跳ね上げだ~!

細かい網だから、かなりの荷重があると思うが左肩で持ち上げるようにして網を支えて、長柄の杓で網を叩くようにようにして獲物を掬う。
幼い記憶ににもクッキリと印象されている作業の景である。

網を再び沈めると、再び不動の姿勢にもどった。

「おはようございます。これが、四つ手網漁ですか?」と訊ねたら、視線は流れから離さず

「あ~。」と、首を小さく肯かせて
「もう、獲れんなったな・・ 陽も照っとらんし・・ 」と応えていただいた。

「シロウオはハゼの子どもですよね」と、問うと

「ハゼはハゼじゃが、シロウオはこれで親じゃ。 卵を産んだら死ぬ・・  卵を生みに上ってくる」と。


ちょうど、そのとき同年輩(70前後)の男性が自転車で通りかかって
「どうじゃい」と声をかけると、やはり姿勢は崩さず

「汐はエエんじゃろが、上がってこん。 1合、2合じゃ  汐はエエが、陽がな・・ 佐伯町のらも、やるように言いよったが・・」と独り言のように。
「佐伯町のらも見えんな」
・・・ 

(そうだ。木製の一合枡で量っていたな)小学生時代の光景が重なってきた・・・

「ありがとうございます。」と、声を掛けて自転車のスタンドをあげて2、3歩進んだ背中に
「おう」と云う声が届いた。

振り返ったら、不動の姿勢で流れに見入っておられた。


(ありがとうございます。)目頭が熱くなった。

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 (memo)
 「しろうお」「しらうお」


しろうお(素魚)は、ハゼ類独特の吸盤腹ビレを持っており、しらうお(白魚)は、サケやマス類の遠い親戚にあたります。
「白魚のような指」という形容詞もありますが、地域によって素魚と白魚の名前は、混同されている場合が多いようです。

※memoは、おさかな図鑑 より転載させていただきました。

レトロに彩りあり・宇和島①序


父が逝って、 久しぶりに宇和島の実家に・・
松山で享年89歳の最期であったが、愛した宇和島の家で納骨までの日を共にすることにした。
不孝、不忠な息子の最後の親孝行だ。

父は大正12年に宇和島に生を受け、旧制宇和島商業を卒業、延岡の旭ベンベルグ(現・旭化成)に就職し宇和島を離れたが、先の大戦に召集され満州へ。終戦は南方に向かう途上、上海で迎えた。
引き揚げて帰省するが、空襲で焼かれた宇和島に呆然自失。帰職することなく、電信柱に公告されていた県の職員に奉職し、以降は宇和島の地を離れることはなかった。
(これくらいのことしか聞いたことがない。)

もう少し詳しく書けば、宇和島市の燐町、近永(現・鬼北町)に婿入りし、わたしが小3にあがる春までの間と、ここ数年を松山ですごした日は宇和島を離れていたことにはなるが、宇和島に生ま育った89年と言っていいだろう。


わたしの宇和島での生活はと言えば、山村から越してきた小3から高校を卒業するまでの10年と言うことになる。もちろん、大学に進み結婚をし、3人の子の親になり、そして孫をもつ歳になっても実家は宇和島と云うことになるんであろうが・・迷惑を掛け続け足を遠のかせた悔みしか残っていないのがつらい。
そのせいもあって、宇和島の像(心象)が淡くオボロである。小3から高卒までの10年は、確かにこの道を歩き、笑い涙したはずなのだが。

しかし、それを悔やんでもせん無いことで、いま出来ることは淡くオボロなママを受け止め愛しむほかないのだろう。

淡いオボロな道を歩いてみたいと思う。