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2024/06/27

松登

 突然ですが

【栃若時代】

千秋楽に全勝対決

1960(昭和35)年3月20日、「名人横綱」栃錦と「土俵の鬼」若乃花(初代)が、史上初の横綱同士の千秋楽全勝対決。若乃花が栃錦を寄り切った。テレビの普及とともに大相撲の黄金期「栃若時代」を築いた。優勝はともに10回。全勝1回、連勝記録も同じ24。対戦成績は栃錦の19勝15敗。

https://www.47news.jp/5993366.html


昭和35年3月と言えば、わたしが小6に進級する春休みの時のことになります。

時代時間の感覚は全く無いんですが、白黒テレビの画面の前に釘付けになっていた事はハッキリと記憶に焼き付いてます。

ちょっと本題から逸れますが   

下の番付表をみると、西張出関脇に柏戸、東前頭4枚目に大鵬の名が載っています。後に、ともに横綱となり【柏鵬時代】と謳われる時代を築かれることとなります。大相撲人気絶頂の時代と言っていいかもです。先に参照の記事には黄金時代とあります。

で、ここで確認したいのは、西前頭8枚目の松登です。(昭和35年春場所。6勝9敗の負け越し。)

大相撲黄金時代の頂点と言ってよい栃若と前頭8枚目で負け越しの松登と。


しかし実は、松登も大関の地位まで出世した力士です。データに拠れば、【昭和31年1月場所〜昭和33年11月場所】までの大関在位とあります。

私の年齢に重ねてみたら、小1の3学期に大関に昇進されたと言うこと。

もう少し具体的に書けば、【近永町(現在は鬼北町)奈良成川に生活していた近永西小学校の1年生の時です。】

昇進前の番付成績

昭和30年9月場所(秋場所)


松登は東関脇で、13勝2敗。準優勝。

この好成績をもって大関の位に昇進したのです。現在でも大関候補は現れても昇進となると狭き門のようです。参考までに、現在の大関昇進基準は三役(関脇、小結)での3場所合計の勝ち星33勝が目安だと言われています。

栃若の位をみると、栃錦が東横綱、若ノ花が西大関です。

この事実に、わたしの記憶がガタガタと崩れる想いあり^^;

わたしは、栃若は松登を追い越していった力士だと‥何の根拠もなしに今日の今日まで思い込んでました^^;

生年月日と初土俵年場所を見てみると、

生年月は、松登(1924年7月生)栃錦(1925年2月生)若ノ花(1928年3月生)の順で、

初土俵は、栃錦(1939年1月場所)松登(1941年1月場所)若ノ花(1946年11月場所)の順。

同世代の力士であったと言えます。

さらに長じてのことについては

栃若時代を築いた栃錦、若ノ花は相撲協会の理事長に就任されたことは大相撲ファンでない方にも周知されてるんじゃないでしょうか。

一方、松登は位も前頭に陥落して人知れず相撲界を去られたと、思っていました。が、今回の急ぎググりで、引退後は振分親方となり後には所属部屋の大山親方となられたことを知ったことに、不思議な安堵感を持つことができました😊


さてさて!なにゆえに斯様な運びとなったのか❓

先に松登関も大関昇進のところに書きました

【近永町(現在は鬼北町)奈良成川に生活していた近永西小学校の1年生の時です。】


【成川の子ども相撲】

当時、子ども相撲が流行ってました。

と言って村の行事とかではなく、Mあんちゃんが中心の子どもの世界に作られた相撲場所です。

当時は小学校にも「農繁期の休み」がありました。おぼろですが、その時期に相撲を取っていたように思います。

そこで、成績によって番付けが決められるのですが、大相撲の番付けに照合した四股名をいただいていた。と記憶しています。

そして、わたしが頂戴したの四股名が松登です。

わたしの記憶には「わたしは成川場所の大関」「かなり強かった」と焼き付いてます(^o^)


そして🎶

成川子ども相撲にも、栃錦、若ノ花が居たのです。

この事は、最近知ったんですが

先月5月21日、松山でです!

成川から宇和島へ転居して67年

道路向かいの一年上のEさんは栃錦

Eさん方の東隣りの同級生のSくんが若ノ花だったんです😊


わたしは、小3に進級する春に近永町から宇和島市に引っ越しをしました。

全校生が100名を超えるくらいで、団塊の世代と呼ばれるようになる我々同級生が30名と言う小さい小学校から転校したのは、同期で300名を超えると言う町の小学校でした。

驚くことばっかだったよな

そんな思いが残滓となっていますが、

アレは何年生のときやったか(3年生だったと思うけどハッキリしません)

宇和島市へ高砂一門



2015/03/20

四国へんろ 【第四十一番 稲荷山龍光寺】

2015.03.13
古くから「お稲荷さん」と親しまれている稲荷山龍光寺(宇和島市三間町戸雁)を、お詣りしました。6、7歳のころ祖母と参拝して以来…60年振りになります😅


※「四国へんろ風景」伊藤太一 (読売新聞社刊)p94 を写した地図です。


▪️標柱


▪️鳥居

▪️参道


▪️参道の先は五十余の石段。正面に【赤い鳥居】が見えます。


▪️石段を登ると、右に「大師堂」、左に「本堂」があります。

▪️大師堂

▪️本堂




▪️赤い鳥居

▪️さらに石段があり、上ると【稲荷神社】です。

▪️神殿



▪️稲荷神社から龍光寺本堂


▪️第四十二番仏木寺への案内(あるき遍路道


▪️▪️神仏同居する霊地
古くから「お稲荷さん」と親しまれている龍光寺は、四国霊場の総鎮守に定められた神仏同居の霊地です。

==参考==
「民家の間から続く長い石段の先に、赤い鳥居がひときわ目を引く龍光寺。稲荷神社と共に在る第41番札所です。小高い山頂からは、穀倉地帯である三間平野を見渡せます。 古くから「お稲荷さん」と呼ばれ広く親しまれているこの寺の由来は、弘法大師が 巡錫じゅんしゃくした際の逸話に伝えられてます。

大同二年(807年)弘法大師がこの地に巡錫した際、白髪の翁が現れて「吾この地に往して守り庶民を利益せん」と告げました。弘法大師は日頃信仰していた稲荷明神の化身と感じ、その尊像を刻み堂塔を建て丁重に安置、稲荷山龍光寺として四国霊場の総鎮守とされたのです。」










2015/03/05

ジンチョウゲの”根っこ”

沈丁花

今年もツボミ(莟)のころ、咲き始めのころと何枚も写真を撮ってきていますが、それはご近所のAさん宅の玄関の沈丁花

10日も前のことだったかAさんの奥さんと出会った
「あそこにあったんはイケンなってしいもたけど、これは挿ししたんよ。
あ、枝とってあげるけん … 今時分でも大丈夫よ」
二枝を手折っていただいた。
ひとつにはツボミが着いていて (あ ツボミが)と思わず声を出しそうになった時
「あれ ツボミのんを折っちゃた」「挿してあげとって」と笑顔で(^^)

(もちろんです)
無知なだけに、その分、不安だけど
ピートモスも何もないけど
小さな鍬で庭土を細かく起こして挿し木したジンチョウゲ

2/28
ツボミ(莟)が開き始めていました

でも
健気さへの感傷はあっても
(根が着いた。活着した。)との実感はありませんでした。

きょう2015/03/05 

これも感傷と言えば感傷ですが
ここがワタシの大地、ジオ。いま ここを
ジンチョウゲの根っこの声が届いてきます

根っこの営み。。。














2015/02/28

【川の記憶】 「安長渡し」「大間渡し」(重信川渡し)

公園建設前の市坪西町概略図 〈耕地整理図写し〉

JR予讃線 市坪駅(愛称”野・ボール駅)から松山中央公園へ入ったところに建てられています。

白抜き「安長渡し」「大間渡し」は筆者
       ⬅️河口方                              北⬆️                           上流方➡️
                                                    南⬇️

現在公園建物との位置関係を対照するために学校橋(赤字)をプロット


▪️安長渡し▪️▪️

概略図には「学校橋」としか刻まれていませんが、「学校橋跡」標柱に「安長渡し」の記述がありました。

「江戸時代から明治時代にかけて郡中方面から松山方面に行く人の多くが行き来していた【安長渡し】に代えて…」


▪️大間渡し▪️▪️

概略図に刻まれています。
二年前に中央公園側の土手に、その跡を探したことがありますが発見出来ませんでした。
その時、南岸(松前町。さらに南西方は郡中になります。)に標柱のあることを教えてもらったのですが…
きょう訪ねてみました(^^;;

「安長渡し」の記述は、前記の学校橋跡標柱の他に見ることは出来ていませんが
「大間渡し」については次がありました。


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大間渡し

 昔、松山と南予を結ぶ道路は、重信川にさしかかると渡し船を利用せねばならなかった。数名の人が権利株を持ち、3人ほどの船頭を雇い運営していた。
 明治20(1887)年には、営業規則ができていた。
 重信川渡しは、塩屋渡し・北川原渡し・出合渡し・大間渡し・中川原渡しの5ヶ所であった。
 重信川渡し跡には、松前町教育委員会により渡し跡を示す木杭が立てられている。


河川伝統技術データベース:分類別リスト【舟運】


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「重信川渡し」
5ヶ所を上流方から並べると
中川原渡し」「大間渡し」「出合渡し」「北川原渡し」「塩屋渡し」

                                  中川原橋(南詰)から堤に降りて河口方を見る
                         坊ちゃんスタジアムが見えます。

堤に降りて、すぐ右手に標柱が建てられていました。
▪️重信川渡し跡(中川原渡し)▪️▪️
                        画像の奥手が上流方、中川原橋が見えます。

                                               標柱から対岸を望む。


初期の堤に県道が走っています。

県道335
松山川内自転車道線


河口方へ
JR予讃線重信川橋梁を越えて先に進んだところで
列車の響きに振り返ったらアンパンマン列車が松山方面に入って来ました。
(嵩上げされた上段の堤から撮影)
(左下に下段の堤をジョギングされて方の姿が写っています)

対岸の景色
チガヤの向こうに坊ちゃんスタジアム
スタジアムの手前(川側)に空港と松山ICを結ぶ高規格道路が建設中
あっと言う間に景色は変化、移ろいます…

上段の堤から下段の堤への景を見ると、
二段堤で嵩上げされているのがよく判ります



(上の堤よりの景)
対岸(北岸。市坪西町。)中央に写っているのが競輪場、右手に瓦屋根の県武道館が見えます。
手前南岸)
画像の中央に標柱があります。

「重信川渡し跡」の表記しかされていませんが、
「大間渡し」の跡に違いありません。

▪️重信川渡し跡【大間渡し】▪️▪️

【中川原渡し】から二つ目の標柱から河口方の景色(
上の堤から)

橋が見えます。
「であい自転車道橋」です。
対岸の市坪西町の西端に跨り、石手川南岸の自転車道と繋がります。
※石手川、傍示川が重信川に出合う(合流)する地点

「であい自転車道橋」の更に加工方にR56の出合大橋
その先に旧56号線の出合橋、その先に河口大橋、そして伊予灘に流れ込みます。

前記の通り、河口方
中川原渡し」「大間渡し」「出合渡し」「北川原渡し」「塩屋渡し」

「出合渡し」は旧の出合橋辺り、「北川原渡し」「塩屋渡し」は、そのまた河口方にあるとしてよいと思います。





===
往還は川の流れに沿って生まれて
対岸、向こう側にわたるとき橋が、渡し(船)の道が生まれたんだと言ってよいとおもいます。

新しい道が生まれたら、景は一変します…

しかし、道(川)が変ぼうしたとしても
道(川)が刻んできた記憶を風化させてはいけない
いや、むしろ変ぼうのスピードが速くなる今こそ、記憶を記録し、それに想起・実践する
ことが大切なこと

記憶の川の流れを止めてはいけない

=========⬇️メモ

突飛な思いつきと言われれば、確かに夢の夢のような話だけれど

「学校橋跡」に記されいる「安長渡し」に、それ以上の資料、記録には辿りつけていないけど
ハッキリと見える
大間渡し」で対岸に渡り、「安長渡し」で石手川を渡る【みち】がハッキリと見える

学校橋を示す破線(概略図)の北岸地点に立つと、ほぼ一直線の先に日招八幡神社を見通すことができる。
市坪の鎮守、素鵞神社は日招八幡神社の末社で
もとは(現在 県武道館から傍示川を渡り中央公園へ入ったところあたりに所在していた)と言うこと。(地元自治会の方より伝聞)

「神幸(みゆき)」の道が見える…



ジオの道…
(未定稿)