突然ですが
【栃若時代】
千秋楽に全勝対決
1960(昭和35)年3月20日、「名人横綱」栃錦と「土俵の鬼」若乃花(初代)が、史上初の横綱同士の千秋楽全勝対決。若乃花が栃錦を寄り切った。テレビの普及とともに大相撲の黄金期「栃若時代」を築いた。優勝はともに10回。全勝1回、連勝記録も同じ24。対戦成績は栃錦の19勝15敗。
https://www.47news.jp/5993366.html
昭和35年3月と言えば、わたしが小6に進級する春休みの時のことになります。
時代時間の感覚は全く無いんですが、白黒テレビの画面の前に釘付けになっていた事はハッキリと記憶に焼き付いてます。
ちょっと本題から逸れますが
下の番付表をみると、西張出関脇に柏戸、東前頭4枚目に大鵬の名が載っています。後に、ともに横綱となり【柏鵬時代】と謳われる時代を築かれることとなります。大相撲人気絶頂の時代と言っていいかもです。先に参照の記事には黄金時代とあります。
で、ここで確認したいのは、西前頭8枚目の松登です。(昭和35年春場所。6勝9敗の負け越し。)
大相撲黄金時代の頂点と言ってよい栃若と前頭8枚目で負け越しの松登と。
しかし実は、松登も大関の地位まで出世した力士です。データに拠れば、【昭和31年1月場所〜昭和33年11月場所】までの大関在位とあります。
私の年齢に重ねてみたら、小1の3学期に大関に昇進されたと言うこと。
もう少し具体的に書けば、【近永町(現在は鬼北町)奈良成川に生活していた近永西小学校の1年生の時です。】
昇進前の番付成績
昭和30年9月場所(秋場所)
松登は東関脇で、13勝2敗。準優勝。
この好成績をもって大関の位に昇進したのです。現在でも大関候補は現れても昇進となると狭き門のようです。参考までに、現在の大関昇進基準は三役(関脇、小結)での3場所合計の勝ち星33勝が目安だと言われています。
栃若の位をみると、栃錦が東横綱、若ノ花が西大関です。
この事実に、わたしの記憶がガタガタと崩れる想いあり^^;
わたしは、栃若は松登を追い越していった力士だと‥何の根拠もなしに今日の今日まで思い込んでました^^;
生年月日と初土俵年場所を見てみると、
生年月は、松登(1924年7月生)栃錦(1925年2月生)若ノ花(1928年3月生)の順で、
初土俵は、栃錦(1939年1月場所)松登(1941年1月場所)若ノ花(1946年11月場所)の順。
同世代の力士であったと言えます。
さらに長じてのことについては
栃若時代を築いた栃錦、若ノ花は相撲協会の理事長に就任されたことは大相撲ファンでない方にも周知されてるんじゃないでしょうか。
一方、松登は位も前頭に陥落して人知れず相撲界を去られたと、思っていました。が、今回の急ぎググりで、引退後は振分親方となり後には所属部屋の大山親方となられたことを知ったことに、不思議な安堵感を持つことができました😊
さてさて!なにゆえに斯様な運びとなったのか❓
先に松登関も大関昇進のところに書きました
【近永町(現在は鬼北町)奈良成川に生活していた近永西小学校の1年生の時です。】
【成川の子ども相撲】
当時、子ども相撲が流行ってました。
と言って村の行事とかではなく、Mあんちゃんが中心の子どもの世界に作られた相撲場所です。
当時は小学校にも「農繁期の休み」がありました。おぼろですが、その時期に相撲を取っていたように思います。
そこで、成績によって番付けが決められるのですが、大相撲の番付けに照合した四股名をいただいていた。と記憶しています。
そして、わたしが頂戴したの四股名が松登です。
わたしの記憶には「わたしは成川場所の大関」「かなり強かった」と焼き付いてます(^o^)
そして🎶
成川子ども相撲にも、栃錦、若ノ花が居たのです。
この事は、最近知ったんですが
先月5月21日、松山でです!
成川から宇和島へ転居して67年
道路向かいの一年上のEさんは栃錦
Eさん方の東隣りの同級生のSくんが若ノ花だったんです😊
わたしは、小3に進級する春に近永町から宇和島市に引っ越しをしました。
全校生が100名を超えるくらいで、団塊の世代と呼ばれるようになる我々同級生が30名と言う小さい小学校から転校したのは、同期で300名を超えると言う町の小学校でした。
驚くことばっかだったよな
そんな思いが残滓となっていますが、
アレは何年生のときやったか(3年生だったと思うけどハッキリしません)
宇和島市へ高砂一門
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