(参考資料)ふるさと遠野 第5章 江戸時代前半の遠野 より
城下町の整備
横田城を中心にした遠野の新しい城下町もしだいに整えられた。横田城は、カヤぶき屋根に白壁の「大館」であった。城のある鍋倉山をとり囲むようにして屋敷町がつくられた。
城の西側には、桜馬場が設けられた。そして、元禄時代には、城下に入る街道の入り口に下級武士たちの住む上組町・中組町・下組町の同心町がおかれ、町の警備にあたった。また、来内川は、自然の堀の役割をはたした。 そして、領内の市場が城下町に集められて、武士の屋敷町(元町、坂下町、砂場町、石倉町)の外側六日町・新町・一日市町が置かれ、一六市が開かれた。やがて、石町(穀町)・裏町(仲町)がつくられた。大工町は、職人町であった。武家屋敷と町人町の間には、高札場が置かれ、藩からの命令がかかげられた。町人町の外側には、寺院や神社がおかれた。 |
〔城下町遠野の記録〕
1681年(延宝9)年に幕府の巡検があったときの記録がある。それによって遠野の町のようすがわかる。
侍町 7丁 170人ほど ほかに歩行3~40人
同心町 3丁 同心120人 寺院 10か所
職人は具足屋1人、仕立屋1人、鉄砲屋1人、大工16人、とぎ師2人、木びき7人、鞍師7人、左官4人、さや師2人、染屋6軒、塗師2人
町家 町数5丁 横丁5つ 家数237 人口 男1,003人 女889人 合計1,892人 馬368頭
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一度は行ってみたいなぁ
45年間、心の隅にあった。それが実現したのが昨年の11月30日の夕刻。
2日の朝には発たねばならぬ、急ぎ足。
その上、なんの予備知識もないまま・・・上に挙げた資料も今日読んだもの。
未整理の写真が未だ一千枚近く残っている。
資料を読ませてもらいながら、巡ったあとを辿ってみたい。
前掲の地図に行路などをプロットすると
茶色のラインが行路
大工町筋は地図に記されている町名に合致するので正確と思うが、大工町筋に平行に引いたラインは
遠野駅から南下一直線に城址の鍋倉山に道路が延びていたことから類推するライン。
黒色のラインはJR釜石線(類推)
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遠野駅前に降り立ったとき目に付いた標識に 大工町(寺町)
故郷宇和島にも同じ 大工町の旧名があり、町名ではないが 寺町界隈 と呼ばれる一画があることが、遠野の町への親近感を増した。
翌朝、日の上がるのをまって 大工町へ。
整備された街区であった。南北に延びている。駅側(北)から南方へ歩く。
「大工町通り」の銘板・木製の街路灯 |
《遠野市街地の特徴》が記されている案内板。 |
冬の早朝の時刻で、広い道路を走る車もなく、行き交う人もなく、ゆったりとした時間をすごせた。
大工町通り |
通りの中頃に 町名標識が建てられていた。
【大工町】
説明文中に 「中同心丁」と称し、お筒持同心が住んでいた。 ~!!
街角から着流し姿の昼行燈同心が!(笑)
とあれ、お筒持と言うなら、鉄砲隊であろうから、鍛冶屋も住んでいたであろう大工町に隣接していた処に住んでいたのだろうか・・などなど思いを巡らし歩いていたら何と!
【長柄組・中同心・持筒同心】と刻まれた石柱がヒッソリと立っていた。
「大工町」標柱の道路向かい。
(他一の面は、個人住宅の植栽に隠れていて見ることができなかった。)
長柄組と刻まれた石柱(南側) |
「長柄組」 長柄の槍をもつ足軽たちの住むもこの辺りにあったのか
(西)通りに面して 中同心 |
持筒同心 (北側) |
【大工町(寺町)】
町の西側には、(外敵への)防御を目的に寺社が集められたと、通りの案内板《遠野市街地の特徴》と記されている。
掲出した資料地図を見ると、(城山)鍋倉山の南側の西に寺院が連なって建てられている。
大工町通りに面して寺院に通じる横道があった。この辺りが江戸時代の遠野の西崖の地域であったのだろう。
大工町通り |
萬福寺
萬福寺本堂 |
白泉山・萬福寺 |
通りから本堂が見える。
写真の左角地に、こんな案内看板が
伝統の遠野町屋の建築様式・連子格子と彫刻 |
寺院へ進めば
手書きの大工町由緒 |
通りを少し入ると、江戸時代から明治、大正、昭和・・時の流れと、それを今に保存しようというここr幾層にも濃密に重なりあって感じることができた。
善明寺
善明寺本堂 |
金光山・善明寺 |
善明寺は、現在の大工町通りに面して案内板が建ててある。
本堂までの敷地は進入路、駐車場に整備され、本堂のまえに山門が新設(?)されている。
(直截の感想、若干の違和感あり。)
善明寺入り口(案内板)を過ぎて通りを少し南進すると左右(東西)に道別れする。
ここが「大工町通り」の南端にあたるようだ。
南進して来た大工町通りを振りかえると
大工町通りを北方に見る。 |
東への道路は道幅も広く、整えられた施設が近く遠くに望むことができる。
天の邪鬼ではないが、西方への道へ。
住宅街区に入る道の感じ。時刻7時半を過ぎて通学生と出合う。
川に出合う。
前掲資料に、自然の堀の役割をはたしたと記されている 來内川。
堀の役割をはたした來内川 |
写真の右手(南)に武家屋敷
左手(北)が、大工町など町民町であった。
当日の私の足は橋を進まず、川に沿った道を西下した。
來内川の次は 瑞応院を撮影していた。
あれ ここにもお寺さんが・・ |
進んだ道は参道ではなかったと記憶に残っているだけれど、砂利を敷いた敷地は整備を待っているようにも思えたり、
あれ、ここにもお寺さんがあるよ そんな感じで撮ったもの。
資料に地図に写真をプロットしつつ思うのは
やっぱり天の邪鬼、へそ曲がりなんだろうか、しかし、この性 悦ぶべしと(笑)
瑞応院
瑞応院本堂 |
鳳徳山・瑞応院 |
参拝して帰路は来た道をとらず、砂利敷地の東方にへ。 人家の間に参道らしき路地が認められる。
町屋の路地裏・・蔵の白壁に琺瑯看板がひとつ・・・
充実を感ずる!
=== 続く ===
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