田中 通夫さん(東宇和郡城川町魚成 大正7年生まれ 81歳)
城川町の秋祭りは、一応11月3日に統一されているが、神職の関係もあって神社によっては他の日に実施されているところもある。城川町魚成(旧魚成村)では、河内神社・三島神社・杉王神社は11月2日に、一宮神社・八幡神社・白王神社は11月3日に実施され、一宮神社と八幡神社では神幸式(しんこうしき)(お旅)が行われている。
城川町魚成で一宮神社の氏子として生まれ育ち、宮総代や総務区長を務めるなどして長く祭りにかかわってきた田中さんに、一宮神社の秋祭りについての話を聞いた。
「一宮神社の秋祭りには、事前に地区で実った作物を神社に持っていき、神様にお供えする風習があるんです。お供えする作物は決まっており、その割り当ては、それぞれの地区の実情を考慮して毎年総会で決められるんです(図表1-1-14参照)。
各集落に割り当てられた作物は、区長さんが皆と相談して提出者を決めてますが、『わしとこにはダイコンができとるから出そう。』『わしとこはカブができとるから出そう。』という具合に皆の希望を聞いて決めるんです。わたしの住む蔭之地地区では、10月20日に山の神様の祭りがあって、その折に皆で相談して決めているんです。
お供え物を神社に持っていく日は、祭りの前々日と決まっていました。昔は今のように道が奇麗でなかったんで、その日は朝から道つくりや幟立てなどをしてたんですが、お供え物はその折に各自が持って行きました。今は区長さんが取りまとめて持って行きます。そして祭りの前日になると、宮総代、区長、大警護(だいけいご)(お練り全般を指揮する役)が神社に集まり宵宮を行い、神事の後には直会もするんです。
一宮神社の祭りを実際に執り行うのは、蔭之地、川向、中津川、町中、古市の5つの集落なんです。しかし、成穂(なるお)、今田(いまで)、男河内(おんがわち)(図表1-1-4参照)も祭りに加わり、昔から五つ鹿は男河内から出すことになっているんです。
祭りの当日は、朝早くから関係者が集まって、神輿や四つ太鼓(ヨイヤッサとも呼ぶ)を仕立てるなどの準備をするんです(写真1-1-36参照)。その間に親牛と子牛の2頭の牛鬼は、それぞれ別々に集落を回って家々の悪魔払いをし、五つ鹿の方も呼ばれた家々を回って踊ります。しかし、牛鬼や五つ鹿は、神事に間に合うように午後1時30分ころまでにはお宮に集まるんです。
わたしの子供のころの牛鬼は、青年団がかいていました。親牛は古市・町中から、子牛は蔭之地・川向・中津川から出すことに決まっていました。今は青年も少なく高校生や中学生もかいています。神幸式での宮出しの順序は、鉄砲・鳥毛(とりげ)・相撲・鹿踊り・四つ太鼓・牛鬼・お成(なり)太鼓・銘旗(めいき)・神輿・御前(ごぜん)びつ・猿田彦(さるたひこ)・大警護と決まっていました。お旅所は神社から約1,500mの所にある保育所ですが、そこまで皆で練って行くんです。
この神幸式では、親子の牛鬼が向かい合ってトンネルを作り、神輿を送迎する儀式があるんです(写真1-1-37参照)。その儀式は、宮出しの時と途中1か所、お旅所の入り口で神輿をお迎えする時と、神輿をお送りする時の合計四回行うことになってます。ですから、牛鬼は途中で走ってお練りの先頭にならんといかんのです。
お旅所では、神事が行われる間に子供たちの相撲が行われるんです。その後に五つ鹿踊りが披露され、牛鬼や四つ太鼓が練ってけんかなどをして(平成11年は行われなかった)、最後にもちまきがあり神幸式は終わるんです。
牛鬼や四つ太鼓がけんかするのは、親牛と子牛と四つ太鼓はそれぞれの集落によって出しものが決められ、かき手が違っていたからなんです。牛鬼同士がぶつかりあったり、牛鬼と四つ太鼓がぶつかりあったりするんですが、酒を飲んでけんかをする人もいて、わたしも若いころに牛鬼をかいていて恐ろしかった記憶があります。お旅所で神輿をお送りしてからも牛鬼は一暴れしますが、その後は午前中に回り残した家々を回ってご祝儀を頂く『ご祝儀拾い』をします。家はすべてが平たんな所にあるとは限りませんので、山の上の方にある家などは直接に行けない所もあり、道から『祝いますぜ。』と言うて家に向かって頭を一回突っ込むんです。今の牛鬼は、軽トラックに積んで回っていますが、昔はすべてかいていたんで大変でした。」
ウ 牛鬼の修復
橋本 清明さん(東宇和郡城川町魚成 昭和3年生まれ 71歳)
城川町魚成の一宮神社の秋祭りには二頭の親子の牛鬼が登場して祭りを盛り上げる。牛鬼は南予地方の祭りに多く見られるものであるが、城川町の牛鬼は暴れ牛鬼で傷みも激しいという。その牛鬼の修復に長年かかわってきた橋本(乱東)さんに、修復作業の苦労話を聞いた。
「わたしが牛鬼の修復にかかわりをもったのは昭和44年(1969年)ころからです。以前から修復にかかわっていた人から『お求えは器用だからわしの弟子として手伝ってくれや、わしは年取ったけん絵付けをようせんようになった。』と言うて頼まれ、引き受けたのが始まりなんです。初めは絵付けだけでしたが、最終的には骨組みなども教えてやるから後を継いでくれということで、結局今日まで修復にかかわることになったんです。
主に修復しているのは、一宮神社の親牛と子牛ですが、修復には相当の費用もかかりますから毎年というわけにはいかんのです。だいたい10年ごとに修復しています。最近修復したのは平成10年でした。今回修復した牛鬼は今までで一番傷んでいました。よく傷むところは頭の部分なんです。牛鬼と牛鬼が激突してけんかをしたり、四つ太鼓との鉢合わせなどで傷むんです。昔は若い者も多くて牛鬼のかき手があふれとったんで、頭使(かしらつか)いには名手がなっていて、今のような牛鬼のかき方はしなかったんです。頭をいっぱい上にあげて頭を守っていたんです。最近は頭をひこずって上にようあげんのです。今はかき手も少ないうえに力もなく、頭を使う技量もないんで、傷みが早いんです。
牛鬼はなんといっても頭の扱いが重要な役で、フキアゲ(吹上)と言うて、牛鬼を勇壮なかっこうに見せかけるために頭を上にすうっと一気にあげるんです。そのあげ方が難しいんです。あげ方がうまいと牛鬼の首が奇麗に膨らんで本物のウシのようになるんです。
親牛と子牛の頭の大きさは大分違うんです。昔の大親牛(かつての親牛のこと)の頭は角の先からあごのところまで1m10cmくらいあったんです。大親牛の頭は重たいので、現在は今までの子牛を親牛にして、新たに軽くて小さい子牛を作ったんです。親牛にした頭は80cmぐらいはあります(写真1-1-38参照)。
魚成の牛鬼の口は、最初から開いた形で作るんです。宇和島の牛鬼はけんかせずに練り歩くので、口をパクパクと動くように作られとるんです。こちらの牛鬼はけんかをするんで宇和島のような牛鬼だとすぐにあごが外れてしまうんです。
宇和島近辺の牛鬼とこの辺の牛鬼は、面の形相が全然違うんです。こちらの牛鬼は、あごが固定していて顔の作りがのっぺらで実際のウシに近い形をしとるんです。どちらかというと宇和島の方は華麗で、こちらは野生的ということになりましょうか。
頭の中は、なるべく軽くするためにキリやスギの木を使いますが、ヒノキは粘りがあるので薄い板にして耐久性が求められる肝心な箇所に部分的に使うんです。最近はしゃにむにけんかして頭棒(かしらぼう)(頭を支える棒)を差し込む所がよく傷むので、去年修復した牛鬼からはそこを一番薄い鉄板で作るようにしました。
頭を修理する時は、一度は全部はずして分解してしまうんです。顔に張り付けている紙は泉貨紙(せんかし)(*34)という紙を野村町中筋(なかすじ)から従来は取り寄せて使っていたんですが、最近は内子町やその他からも取り寄せて使っています。紙は、はっては乾かしを繰り返して五分(約1.5cm)くらいの厚さになるまではっていくんです。その過程が大変なんです。顔全体に一回通り紙をはるのに3日くらいはかかるんで、紙を顔全体に全部はるだけでも最低1か月はかかります。はり上げたものはげんこつでたたいてすぐにしゃげる(つぶれる)ようだと駄目なんです。紙をはるのは、一枚の広い紙をぺ夕ぺ夕とはるようなわけにはいかず、顔の凸凹や湾曲に合わせて紙をちぎってはっていくんです。はさみで切った紙ははるとそこにガタ(段差)ができて色塗りが難しいんです。
紙をはるのりは、昔はワラビの根をたたいてでんぷんを取り、もち米の粉と混ぜて作っていたころもあったんですが、最近は、よい市販ののりが出てるのでそれを使っています。色付けは特殊な塗料を使っていますが、一宮神社の牛鬼は黒色が基調で目の部分に一部赤色を使っているんです。結局、牛鬼の修復には、紙を奇麗にはりあげて、絵付けをするまでに最低3か月は十分かかるんです。」
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「えひめの記憶」 - [『ふるさと愛媛学』調査報告書]
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