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2013/10/25

『鉄路の夢 「宇和島鉄道」物語』  

先日(10月20日)、吉野生(よしのぶ)の交流促進センターで開催された「宇和島鉄道全線開通90周年記念事業」講演を聴講しました。

タイトルにした『鉄路の夢 「宇和島鉄道」物語』は、記念講演のそれです。
ボクは、撮り鉄、乗り鉄と呼ばれるような熱心な鉄道マニアではありません

『鉄路の夢』あるいは『鉄路への想い』

ボクの中にある、鉄路、電線への思い込みは
A地点からB地点へ、そしてC,Dの地点へと結び繋がっていくこと、点が線に繋がって行くことへの漠然とした憧れのようなものなんですが^^;

たまたま開催を知った記念事業に行ってみようと思ったのは、小3のおり初めて独り汽車行をした江川崎線(現在の予土線)の前身が、この私鉄宇和島鉄道であること(これまで知りませんでした)と
もうひとつの関心は、事業の主催が行政でも、JRさんでもなく地域の任意グループであると言うことにありました。
西南四国歴史文化研究会の松野(町)支部の方々の発意によるものとのこと
お歳のことを話題にするのは失礼ですが、実行委員長でご講演いただく矢野和泉氏は84歳・・
その語られる『鉄路の夢』あるいは『鉄路への想い』を是非にも聴講したい
その情熱を直に感じてみたいと思ったのでした


以下、聴講録とはいきませんが
備忘のために感想などを加えて整理して行きたい(行ければ)と思います^^;



【宇和島鉄道・主要年表】(講演レジュメより)
明治27年 玉井安蔵、今西幹一郎ら、宇和島ー吉野間25.1kmの鉄道敷計画
  29年 宇和島鉄道会社設立(資本金26万円)
  38年 解散
※資金難が原因であったとのことだが
日本初の鉄道開業が明治5年(新橋ー横浜)を見れば、この時期に宇和島において鉄道建設が計画されたことが意義深く思われる。郷土建設への滾る熱い思いを感じる。       

明治44年 宇和島軽便鉄道会社設立今西幹一郎他9名発起。資本金40万円)
      翌45年社名を「宇和島鉄道会社」と変更

大正  3年 宇和島ー近永間で営業開始(レール幅76.2cm。ドイツ製コッペル機関車)


往時の近永駅と軽便列車

※「マッチ箱」と愛称されたと。現・宇和島駅前に展示されている


二枚の営業開始ポスター

十月十七日 営業開始

      






















十月十八日 営業開始
























果たして真実の営業開始は?

Wiki「予土線」の年表には、「1914年(大正3年)10月18日:宇和島鉄道により宇和島 - 近永間が開業。」となっている。

ポスターをよく見ると
10月17日開業のモノには、社長 今西幹一郎とあるのが
翌10月18日開業のモノは、副社長 今西幹一郎と肩書きが変更されている

社内の権力闘争の結果ではなく、やはり資金不足を補うために県外資本を導入したためのものと言うのが実相のようである。

名(地位)より実(鉄路に機関車を走らす)を取る英断、夢の実現への熱意を想う



大正 5年 宇和島駅移転
当初の駅は和霊神社と城北中学校の間にあったそうだが、これは海運との関係を考慮したものであったそうだが、より良い利便、地域振興の観点から現在地へ移転されたとのこと。
敷地の大半が役員所有のものであったことから、とやかく言う声も聞いたが先見の明を評価すべきとは講師の談である。

大正 9年 近永ー吉野間8km延長認可、工事開始へ

(近永ー出目(いずめ)ー松丸ー吉野)
奈良川橋梁の工事


出目~松丸の線路工事


出目峠の掘削


大正12年 近永ー吉野間が竣工して宇和島鉄道全線開通
(12月12日)


吉野駅 表側


吉野駅 線路側

この開通による経済効果は大きくて、高知県との交流も活発となり
松丸の人口は5千人を、吉野生は4千人を突破したと言う(講師談)

昭和30年に合併、松丸町の松と吉野生村の野をとって松野町となったのですが、わたしには松丸、吉野生の名の方がピンとくるものがあります。
(’13推計人口 4,187人)

昭和 8年 宇和島鉄道を88万円強で国鉄が買収。日本国有鉄道に編入。
     吉野駅を吉野生駅と改名。




現在の吉野生(よしのぶ)駅






以下の年表はWikiより

1933年(昭和8年)8月1日:宇和島鉄道が国有化され宇和島線となる。宮野下駅を伊予宮野下駅に、中野駅を二名駅に、吉野駅を吉野生駅に改称。

1941年(昭和16年)7月2日:全線を1067mm軌間に改軌。宇和島 - 務田間の旧線を廃止し、北宇和島 - 務田間の新線が開業。北宇和島駅が起点となる。旧線上にあった高串駅、光満駅廃止。

のちに予讃線となる宇和島 - 卯之町間が開業

1953年(昭和28年)3月26日:吉野生 - 江川崎間が開業

※昭和24年生の私には江川崎線の名が懐かしいのだが、その呼称は正式なものではないようだ。
高知県と鉄路が繋がった達成感、高揚感のようなものが、そんな名を産んだのかもしれない

1960年(昭和35年)10月1日:真土駅開業。

※真土(まつち)の名が記憶に強く焼きついている。
小学校の5年か6年生のころ、宇和島から近永の祖母の家にレールバス(当時、SLに代わってレールバスなるものが走っていた。貨客の減少に対応したものだったとか)に乗ったが、寝過ごしてしまって真土の駅票だけのプラットフォームに慌てて飛び降りて、近永行きが戻ってくるはずだ、来るはずだとレールバスの姿を待ったことがある

1974年(昭和49年)
3月1日:江川崎 - 若井間が開業し全通。予土線と改称。


第二次世界大戦後に愛媛(伊予)と高知(土佐)を結ぶことを目的に2回に渡る延長が実施され、1974年(昭和49年)の全線開通に合わせて旧国名の頭文字をとって予土線とした。愛媛と高知を結ぶ鉄道はこのほか松山 - 佐川間[5]や宇和島 - 宿毛 - 中村 - 窪川間[6]などが計画されていたが、実現したのは予土線だけである。
(Wikiの記述を転載)

9月:CTC化。
10月1日:貨物営業廃止。

1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により四国旅客鉄道に承継。

=====


2013年(平成25年)10月5日運航開始!
元祖トロッコ列車 しまんトロッコ 
デザイン一新リニューアル!!



恵まれた沿線風景を旅客誘致につなげる目的で、国鉄時代の1984年から、トロッコ列車「清流しまんと号」の運行が開始された。国鉄・JRグループとしては最初のトロッコ列車で、以後各地の国鉄・JR線でトロッコ列車が運行されるようになった。(Wiki「予土線」沿線概況より)(太文字引用者)

日本最初のトロッコ列車で30年の歴史を有するが、モータリゼーションの進展に伴って、地方鉄道事業の衰退を示すものともいえる

おらが地域の発展の夢をのせ敷かれた鉄路は・・





熱を込めて語られる講師

熱心に聞き入る聴講者

来賓席には、開催地の松野町町長をはじめ予土線沿線の宇和島市長、鬼北町長、高知県四万十市長さんも臨席されている

宇和島鉄道の開通を礎としたJR予土線への想いがヒシヒシと伝わってきた



四国循環鉄道線路縮図大正九年八月写 とあります。)


愛媛県における国有鉄道既成線は、香川県高松から川之江、そして三島(伊予三島)までで、北条までが国有鉄道工事中となっています。
県内で私設鉄道既成線が見られるのは松山市から伸びる4線(今もある高浜線、横河原線、郡中線と今は廃線となった森松線)と長浜~五郎~大洲の線と、
宇和島~宮野下~旭(近永のことだと思います。祖母が使ってた竹の状差しの裏に旭村の名が記載されてたことを覚えています)。そうです、1914年(大正3年)10月18日に開通した宇和島鉄道の鉄路です。

この年代に既に四国循環鉄道の絵が描かれていることに、新鮮な感動を覚えます。

拡大してみると宮野下から卯之町への鉄路が計画されています。
現には北宇和島駅が新設され、そこから卯之町へと鉄路が繋がるのですが

現在の予讃線が東から西へ、そして南へ伸長されたのではないことが解ります。
宇和島から夢を育み始めたのです!

それと、
卯之町から坂石へ
坂石と旭を鉄路で結び繋げる・・

何と夢のスケールの大きい事!


想い、夢を描くのは、あるいは容易なことなのかもしれない
絵空事と嗤うのは容易い

しかし
夢の実現への道は険しく、またその持続存続もまた厳しいのが現実なんだろうけれども

その険しさ、厳しさの克服が新たな夢への出発なのだと思う



あいかわらず纏まらないけど^^;
感動を一過のモノにしないために
夢を持続させるために記す

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