季の節目だから、立春、立夏、立秋、立冬と年に4回あるが
立春の前日の「節分」の行事がポピュラーである。
春夏秋冬、春が一年の始まりであるから
「さぁ、新しい年を迎えるんだ」
意気込みが違うんだろう^^
→「節分の意味と由来とは?」
さておいて、節分の行事には
「豆蒔き」
鬼は外、福は内と炒った大豆を撒いて
齢の数、あるいは+1粒の大豆を食す
最近は、太巻きの巻き寿司を「恵方巻き」と称して頂くことが流行している
1/31に数え66になったが
66粒、堅い大豆は無理かな^^;、水煮の大豆を買って五目煮を炊きました^^
もう一品は、鰯の丸干し二尾。お頭付き^^
鰯に飾ってるのはヒイラギ。冬の木、柊。
火に炙ったらパチパチ音がする、、、なんかホッとする音と匂い
昔から臭いのきついものや尖ったものを厄払いに用います。そこで、鬼の嫌いなものは「臭い鰯(いわし)の頭」と「痛い柊(ひいらぎ)のトゲ」とされ、鰯の頭を焼いて柊の枝に刺し、それを家の戸口に置いて鬼の侵入を防ぐ焼嗅(やいかがし)という風習がうまれました。また、鰯を戸口で焼いて臭いをかがせることを焼嗅と呼んだり、鰯の頭を柊の枝に刺したものを柊鰯、鰯柊と呼ぶこともあります。
(http://allabout.co.jp/gm/gc/220584/ より抜粋引用)
焼嗅(やいかがし)、柊鰯、鰯柊の呼称には記憶はないですが、
「これで、鬼の侵入を防ぐんじゃ」バァチャンの声を思いだすことができます
退治ではなく侵入を防ぐだったです。
そう言えば、部落を取り囲むようにたてられていた記憶も朧ですが残っています。
柊に鰯の頭、
いまではほとんど見かけることがなくなりましたが
こんな風習から、信仰心のようなものを学んで(教えてもらって)いたんじゃないかと思います。
「鰯の頭も信心から」
皮肉る表現に使われることが多いようですが、含蓄深い古人の知恵を感じます
【読み】 | いわしのあたまもしんじんから |
【意味】 | 鰯の頭も信心からとは、つまらないものでも、信仰の対象となれば有り難いと思われるようになるというたとえ。 |
【鰯の頭も信心からの解説】
【注釈】 | 鰯の頭のようなつまらない物であっても、神棚にまつって信心すれば、有り難いと思うようになることから。 第三者の目からはつまらないものに見えても、信心する人にとっては尊くありがたい存在になるということ。 「信心から」は、信心次第という意味。 昔、節分の夜に鰯の頭を柊の枝に刺して門口に飾っておくと、鰯の臭気が邪鬼を追い払うといわれていたことからできた言葉。 何かを頑固に信じきっている人をからかうときにも使われる。 「頭」は「かしら」とも読む。 『上方(京都)いろはかるた』の一つ。 「故事ことわざ辞典」より |
解説にあるように、頑迷に凝り固まっているのをからかうときにも使われますが
かっては(そんなに昔じゃありませんが^^;
それは、からかいであって排斥とか否定ではなかったように思います
いまはどうだろう?
全否定を感じてしまいます
考えの違いを論議することなく否定することによって自己の存在(考え)を正当化して安堵している
そのように思ったりすることが多くあります
そんな昔じゃない昔にあったのは、
考えの違いを、否定するんじゃなくて、からかうことで容認する、そして調和を保つ知恵じゃなかったのかな
調和と言う言葉には反発したくなるんですが^^;
集団生活を円滑に維持するためには大切な視点です
風習には、そんな視点のようなものが知識としてでなく、生活の言葉で伝えられてきたもんじゃないのかな、
そして、それが知恵の言葉だと思います。
「これで、鬼の侵入を防ぐんじゃ」バァチャンの声が届いてきます
鬼の話を、もっとバァチャンと話したかったなって思います
60余年まえ、そんな昔じゃない
そこには共感、共生の場が確かにあった・・
それも、「鰯の頭も信心から」なのかもしれないけれど^^
「今」信ずるところを歩み続けたいと思った66歳の節分の日でした
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