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2014/12/08

神遣神社  (遠野・早池峰郷)

■■神遣神社

神遣を「かみわかれ」と読みます。




■神遣神社由来板

遠野三山は、古くから霊場として信仰の対象とされてきましたし、民話や伝説の類もこの三山にまつわるものが多くあります。次の話はその代表的な物語です。

大昔に女神あり、三人の娘を供ひてこの峠に来たり。
三人の娘の名は姉娘が「おろく」次娘が「おいし」末娘が「おはや」という。
この神社に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘よき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、
夜深く天より麗華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の娘眼覚めてひそかにこれをとり わが胸の上にのせたりしかば、
ついに最も美しき早池峰を「おはや」が得、
姉たちは、「おろく」が六角牛「おいし」が石神(石上)とを得たり。
若き三人の女神各三つの山に住し、今もこれを領したまふゆえに遠野の女どもはその妬みを恐れて今もこの山は遊ばずといへり。

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下線の部分は『遠野物語』二話にほぼ一致しているが、宿りし場所が違う。
『遠野物語』では今の来内らいない村の伊豆権現いずごんげん
「神遣神社由来」では、神遣神社

〈遣〉を「わかれ」と読むのところに注目すれば、神遣神社で三人の女神が三山に別れたとするのが解り易い。

三人の女神の名前が「神遣神社由来」に記されているが
「おはや」ー池峰
「おろく」ー角牛
「おいし」ー
三山の名との符合に、民間伝承の味わいのようなものを感じる。






『遠野物語』二

 遠野の町は南北の川の落合おちあいにあり。以前は七七十里しちしちじゅうりとて、七つの渓谷おのおの七十里の奥より売買ばいばいの貨物をあつめ、そのいちの日は馬千匹、人千人のにぎわしさなりき。四方の山々の中に最もひいでたるを早池峯はやちねという、北の方附馬牛つくもうしの奥にあり。東の方には六角牛ろっこうし山立てり。石神いしがみという山は附馬牛と達曾部たっそべとの間にありて、その高さ前の二つよりもおとれり。大昔に女神あり、三人の娘をともないてこの高原に来たり、今の来内らいない村の伊豆権現いずごんげんの社あるところに宿やどりし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華れいかりて姉のひめの胸の上に止りしを、末の姫眼覚めさめてひそかにこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもうゆえに、遠野の女どもはそのねたみおそれて今もこの山には遊ばずといえり。
○この一里は小道すなわち坂東道ばんどうみちなり、一里が五丁または六丁なり。
タッソベアイヌ語なるべし。岩手郡玉山村にも同じ大字おおあざあり。
○上郷村大字来内、ライナイアイヌ語にてライは死のことナイは沢なり、水の静かなるよりの名か。

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山口の水車 (遠野)

遠野市土淵山口




■山口の水車



案内文(太字:引用者)

数多くの物語を語り伝えてきた山口は、ぶんだ峠、界木峠の入り口にある坂の多い村でした。
曲り屋をかこんでヒエ・アワ・豆畑が広がり、これらの脱穀や製粉のため水車は昼も夜もゴトゴトと音をたてて粉塵を噴き上げ、静かな風景のなかで力強い鼓動を響かせていました。


『遠野物語」五

 遠野郷より海岸のはま吉利吉里きりきりなどへ越ゆるには、昔より笛吹峠ふえふきとうげという山路やまみちあり。山口村より六角牛ろっこうしの方へ入り路のりも近かりしかど、近年この峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢であうより、誰もみなおそろしがりて次第に往来もまれになりしかば、ついに別の路を境木峠(さかいげとうげ)という方に開き、和山わやま馬次場うまつぎばとして今は此方ばかりを越ゆるようになれり。二里以上の迂路うろなり。
○山口は六角牛に登る山口なれば村の名となれるなり。
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注1)四方の山々の中に最もひいでたるを早池峯(はやちね)という、北の方附馬牛つくもうしの奥にあり。東の方には六角牛(ろっこうし)山立てり。石神(いしがみ)という山は附馬牛と達曾部たっそべとの間にあり・・
(遠野物語二話より抜粋)




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山口の水車アルバム
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資料) http://textview.jp/post/culture/14641 より

此(この)話はすべて遠野の人佐々木鏡石(きょうせき)君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折々訪ね来(きた)り此話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手には非(あら)ざれども誠実なる人なり。自分も亦(また)一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。(……)

『遠野物語』序文の冒頭です。「佐々木鏡石君」とあるのは佐々木喜善のことで、「鏡石」はペンネームです。

佐々木喜善は明治十九年(1886)に遠野の土淵村の山口という集落で生まれ、




2014/12/06

カッパ渕~蓮池川水域  「カッパ淵・常堅寺・阿部氏屋敷跡」(遠野)

【カッパ淵・常堅寺】




■R340に案内看板




























■ホップ畑が広がっています。

■■常堅寺へ




案内文より
「道元禅師像  
・・蓮峰山常堅寺は延徳二年(一四九○年)大原長泉寺大聞秀宗の開山、開基は大原弾正勝行と伝えられている。

仁王尊像二体
 もと早池峰山妙泉寺の仁王門に安置されていた仁王様で、明治《三》年神仏分離により、常堅寺に移されたものである。」

注1)《三》と写したのは、三が上書きされているので《三》とした表記したものです。

注2)このあと早池峰神社を訪ねましたが、ふるさと学校の方から「妙泉寺から仁王尊像を猿ケ石川に流し、それが流れついたところに再建されたと言う話が残っています。」と聞かせてもらいました。【こだわりメモ】



■山門と仁王尊像。山門の向こうに本堂が見えます。




■山門
■早池峰妙泉寺から移された仁王尊像




どなたが置かれたものか?
「仁王像 早池峰神社山門にあったが 明治(三)年 この地に移されたものと云われる。」
三の字が白く上塗りされています。


この案内には「山門にある白木の仁王像二体は、もと市内附馬牛町の早池峰山妙泉寺にあったものを、明治維新の頃、妙泉寺が廃寺になる際移したもの・・」とあります。

注3)詔書大教宣布」が出された明治3年が仁王像を移した年とされたのかも知れない。

神仏分離令。それによって惹起された廃仏毀釈の嵐・・
注2)に「妙泉寺から仁王尊像を猿ケ石川に流し、それが流れついたところに再建されたと言う話が残っています。」と聞かせてもらいました。と書きましたが

打ち毀した仁王像を猿ケ石川に流したとは聞こえませんでした
再建するために猿ケ石川を路に運んだ・・そのように伝わってくるものがありました【こだわりメモ】

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案内の前段に

「延徳二年(一四九○)開創、開山は大原弾正勝行、遠野郷の曹洞宗十二カ寺の筆頭であると『遠野物語』八十八話にある。」

遠野物語「八十八」
 これも似たる話なり。土淵村大字土淵の常堅寺じょうけんじ曹洞宗そうとうしゅうにて、遠野郷十二ヶ寺の触頭ふれがしらなり。或る日の夕方に村人何某という者、本宿もとじゅくより来る路にて何某という老人にあえり。この老人はかねて大病をして居る者なれば、いつのまによくなりしやと問うに、二三日気分もよろしければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にてまた言葉を掛け合いて別れたり。常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね来たりしゆえ出迎え、茶を進めしばらく話をして帰る。これも小僧に見させたるに門のそとにて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見ればまた茶は畳の間にこぼしてあり、老人はその日せたり。
(『遠野物語』の引用は青空文庫作成ファイル より
http://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52504_49667.html
以下、同じ)


■常堅寺本堂

















■カッパこま犬

境内に十王堂があり「カッパこま犬」が据えられています。
十王堂


向かって右側「口を開けて・阿」
頭の皿


左側「口を閉じて・吽」開いているようにも見える



 常堅寺の火事のさいはカッパが頭の皿から水を噴き出して消しとめたと言う話も伝わっているようです。


■■カッパ淵

土淵町の常堅寺裏を流れる小川の淵にはカッパが多く住んでいて、人々を驚かし、いたずらをしたといわれています。 
澄んだ水がさらさらと流れるカッパ淵は、うっそうとした茂みに覆われ、今にもカッパが現れそうです。淵の岸辺には、カッパ神を祀った小さな祠があり、子持ちの女性がお乳が出るようにと願ををかけるとかなうといわれています、願かけには、赤い布で乳の形を作り、この祠に納めるのが習いとされています。
「遠野市観光協会公式サイト」より (太字は引用者)


常堅寺裏を流れる小川

画像右手が常堅寺の境内側


常堅寺境内より




河童
馬を川に引きこむいたずらに失敗したカッパは、おわびをして許され、母と子の守り神となりました。
常堅寺の香時のさいは頭の皿から水を吹き出して消しとめ、いまでも一対のカッパ狛犬として境内にその姿をとどめています。
(太字引用者)


■「馬を川に引きこむいたずらに失敗したカッパ」は遠野物語五十八話にあります。

遠野物語「五十八」

 小烏瀬川こがらせがわ姥子淵おばこふちの辺に、新屋しんやうちといういえあり。ある日ふちへ馬をひやしに行き、馬曳うまひきの子はほかへ遊びに行きし間に、川童出でてその馬を引き込まんとし、かえりて馬に引きずられてうまやの前に来たり、馬槽うまふねおおわれてありき。家のもの馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば川童の手出でたり。村中のもの集まりて殺さんかゆるさんかと評議せしが、結局今後こんごは村中の馬に悪戯いたずらをせぬという堅き約束をさせてこれを放したり。その川童今は村を去りて相沢あいざわの滝の淵に住めりという。
○この話などは類型全国に充満せり。いやしくも川童のおるという国には必ずこの話あり。何の故にか。

===


小さな祠が左手に見えます。(写真の右手が境内側)

カッパ神を祀った小さな祠



願かけには、赤い布で乳の形を作り、この祠に納めるのが習いとされています。

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■かっぱ渕の案内板


遠野の河童は顔が赤いといわれ
その伝説は数多く残っている。

「・・・遠野物語五十八話 抜粋・・・」

この阿部屋敷の水ごうの流れ渕には河童駒引きの伝説を伝える河童神様を祀っている。洞の中には乳房の縫いぐるみが奉納されており、乳の信仰にしている興味深い民俗がある。

(太字:引用者)

カッパ渕~蓮池川水域  
Haseki River and Kappa・buchi Pool

はせき川と呼ぶようだが、小烏瀬川の支流?【こだわりメモ】⇒阿部屋敷


遠野の河童は顔が赤い

遠野物語「五十八」

 ほかの地にては川童の顔は青しというようなれど、遠野の川童はつらいろあかきなり。佐々木氏の曾祖母そうそぼおさなかりしころ友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある胡桃くるみの木の間より、真赤まっかなる顔したる男の子の顔見えたり。これは川童なりしとなり。今もその胡桃大木にてあり。この家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。

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カッパ渕~蓮池川水域  
Haseki River and Kappa・buchi Pool

 

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■■阿部屋敷の水ごうの流れ渕・・阿部屋敷に掛かる史跡等

■■安倍(阿部)屋敷跡



案内文より(原文は改行無し。太字は引用者)

『遠野物語』第六十八話に「安倍氏という家ありて貞任の末なりと云ふ。昔は栄えたる家なり。今も屋敷の周囲には掘ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり」と記されている。
昔からこの地は屯舘と呼ばれ、平安時代後期に北上川流域に勢力を誇った安倍氏の一族(貞任の弟・北浦六郎重任)が屋敷を構えたと伝えられている。
現在も堀の跡などの遺構が残り、この地に続く阿部氏は安倍氏の転じたものと伝えられている。
屋敷跡の東北にある稲荷社は、約四00年前に安倍氏の養子になった人が甲州(山梨県)より勧請し氏神としたもので、近郷でも古い社の一つといわれている。
明治の初め頃まで旧暦二月十五日の祭礼日には「ダンビラケー(ダンビラ祭)」が行われていた。
近郷の山伏を一堂に集めて、湯立ての儀式を行い巫女が笹を振りながら巫女舞を舞ったといわれる。
近くにカッパ淵がある。



遠野物語「六十八」

土淵村には安倍氏という家ありて貞任が末なりという。昔は栄えたる家なり。今も屋敷やしきの周囲には堀ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり。当主は安倍与右衛門よえもん、今も村にては二三等の物持ものもちにて、村会議員なり。安倍の子孫はこのほかにも多し。盛岡の安倍館あべだての附近にもあり。厨川くりやがわしゃくに近き家なり。土淵村の安倍家の四五町北、小烏瀬川こがらせがわ河隈かわくまたての址あり。八幡沢はちまんざたてという。八幡太郎が陣屋というものこれなり。これより遠野の町へのみちにはまた八幡山という山ありて、その山の八幡沢の館の方に向かえる峯にもまた一つの館址たてあとあり。貞任が陣屋なりという。二つの館の間二十余町を隔つ。矢戦やいくさをしたりという言い伝えありて、矢の根を多く掘り出せしことあり。この間に似田貝にたかいという部落あり。戦の当時このあたりはあししげりて土かたまらず、ユキユキと動揺せり。或る時八幡太郎ここを通りしに、敵味方てきみかたいずれの兵糧ひょうりょうにや、かゆを多く置きてあるを見て、これはた粥かといいしより村の名となる。似田貝の村の外を流るる小川を鳴川なるかわという。これを隔てて足洗川村あしらがむらあり。鳴川にて義家よしいえが足を洗いしより村の名となるという。
ニタカイアイヌ語のニタトすなわち湿地より出しなるべし。地形よく合えり。西の国々にてはニタともヌタともいう皆これなり。下閉伊郡小川村にも二田貝という字あり。


■阿部屋敷 (別名 屯舘)

建物は残っていません。
案内板向こうが掘の遺構か






写真の左手に写っているのが、「屋敷跡の東北にある稲荷社」





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近くにカッパ淵がある

安倍(阿部)屋敷跡の案内板からカッパ神様の洞を写したものです。



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カッパ渕~蓮池川水域  
Haseki River and Kappa・buchi Pool


はせき川と呼ぶようだが、小烏瀬川の支流?【こだわりメモ】⇒

蓮池川は阿部屋敷跡地を過ぎると畑地を縫う小川のように流れます。
用水路のようにも見えます。

上流方  右手奥のほうがカッパ渕



下流方
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■■早池峰への想い・・・


R340に戻ると、道沿いに朽ちかけた木組みと石碑があります。
石碑には早池峰大神、御(?)はやちね山道と刻まれています。早池峰山への古道がここにあったのでしょうか・・

早池峰信仰の篤さは窺うことができます。



早池峰大神
明治 廿(?)五年



御はやちね山道


このあと、山口の水車へ回り、神遣峠をこえて早池峰神社へ向かいました。(’11.12.1)


【こだわりメモ】再掲

注2)このあと早池峰神社を訪ねましたが、ふるさと学校の方から「妙泉寺から仁王尊像を猿ケ石川に流し、それが流れついたところに再建されたと言う話が残っています。」と聞かせてもらいました。【こだわりメモ】

注2)に「妙泉寺から仁王尊像を猿ケ石川に流し、それが流れついたところに再建されたと言う話が残っています。」と聞かせてもらいました。と書きましたが

打ち毀した仁王像を猿ケ石川に流したとは聞こえませんでした
再建するために猿ケ石川を路に運んだ・・そのように伝わってくるものがありました【こだわりメモ】




猿ケ石川の水の流れを路にして仁王像を運んだヒト・・
カッパと云うヒト・・

こだわりたいモノがあります (’14.12.6)

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『遠野物語』に語られる「河童」 55話~59話




遠野物語「五十九」

他の土地では河童の顔は青いと謂う。
でも、遠野の河童の面は、真っ赤である。
・・略・・


遠野物語「五十五」

遠野の川には河童が多く棲んでいる。
猿ケ石川には特に多いという。
河童は、人を孕ませる。
・・略・・


遠野物語「五十六」

上郷村の何某という家の娘も、河童らしきものの子を産んだという噂がある。
・・略・・


遠野物語「五十七」

川岸の砂地に河童の足跡を見ることは、決して珍しいことではない。
・・略・・


遠野物語「五十八」

小鳥瀬川の姥子淵の近くに、新屋の家という屋号の家がある。
この家の者が、ある日馬を冷やすために姥子淵へ行った。 
・・略・・
置き去りにされた馬に河童が取り付いた。馬を淵の中に引き摺り込もうとしたのである。
・・略・・