公園建設前の市坪西町概略図 〈耕地整理図写し〉
JR予讃線 市坪駅(愛称”野・ボール駅)から松山中央公園へ入ったところに建てられています。
白抜き「安長渡し」「大間渡し」は筆者
⬅️河口方 北⬆️ 上流方➡️
南⬇️
▪️安長渡し▪️▪️
概略図には「学校橋」としか刻まれていませんが、「学校橋跡」標柱に「安長渡し」の記述がありました。
「江戸時代から明治時代にかけて郡中方面から松山方面に行く人の多くが行き来していた【安長渡し】に代えて…」
▪️大間渡し▪️▪️
概略図に刻まれています。
二年前に中央公園側の土手に、その跡を探したことがありますが発見出来ませんでした。
その時、南岸(松前町。さらに南西方は郡中になります。)に標柱のあることを教えてもらったのですが…
きょう訪ねてみました(^^;;
「安長渡し」の記述は、前記の学校橋跡標柱の他に見ることは出来ていませんが
「大間渡し」については次がありました。
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大間渡し
昔、松山と南予を結ぶ道路は、重信川にさしかかると渡し船を利用せねばならなかった。数名の人が権利株を持ち、3人ほどの船頭を雇い運営していた。 明治20(1887)年には、営業規則ができていた。 重信川渡しは、塩屋渡し・北川原渡し・出合渡し・大間渡し・中川原渡しの5ヶ所であった。 重信川渡し跡には、松前町教育委員会により渡し跡を示す木杭が立てられている。 |
河川伝統技術データベース:分類別リスト【舟運】
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「重信川渡し」
5ヶ所を上流方から並べると
「中川原渡し」「大間渡し」「出合渡し」「北川原渡し」「塩屋渡し」
中川原橋(南詰)から堤に降りて河口方を見る
坊ちゃんスタジアムが見えます。
堤に降りて、すぐ右手に標柱が建てられていました。
▪️重信川渡し跡(中川原渡し)▪️▪️
画像の奥手が上流方、中川原橋が見えます。
標柱から対岸を望む。
初期の堤に県道が走っています。
県道335
松山川内自転車道線
列車の響きに振り返ったらアンパンマン列車が松山方面に入って来ました。
(左下に下段の堤をジョギングされて方の姿が写っています)
対岸の景色
チガヤの向こうに坊ちゃんスタジアム
スタジアムの手前(川側)に空港と松山ICを結ぶ高規格道路が建設中
あっと言う間に景色は変化、移ろいます…
対岸(北岸。市坪西町。)中央に写っているのが競輪場、右手に瓦屋根の県武道館が見えます。
(手前南岸)
画像の中央に標柱があります。
▪️重信川渡し跡【大間渡し】▪️▪️
橋が見えます。
「であい自転車道橋」です。
対岸の市坪西町の西端に跨り、石手川南岸の自転車道と繋がります。
※石手川、傍示川が重信川に出合う(合流)する地点
「であい自転車道橋」の更に加工方にR56の出合大橋
その先に旧56号線の出合橋、その先に河口大橋、そして伊予灘に流れ込みます。
前記の通り、河口方
「中川原渡し」「大間渡し」「出合渡し」「北川原渡し」「塩屋渡し」
「出合渡し」は旧の出合橋辺り、「北川原渡し」「塩屋渡し」は、そのまた河口方にあるとしてよいと思います。
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往還は川の流れに沿って生まれて
対岸、向こう側にわたるとき橋が、渡し(船)の道が生まれたんだと言ってよいとおもいます。
新しい道が生まれたら、景は一変します…
しかし、道(川)が変ぼうしたとしても
道(川)が刻んできた記憶を風化させてはいけない
いや、むしろ変ぼうのスピードが速くなる今こそ、記憶を記録し、それに想起・実践する
ことが大切なこと
記憶の川の流れを止めてはいけない
=========⬇️メモ
突飛な思いつきと言われれば、確かに夢の夢のような話だけれど
「学校橋跡」に記されいる「安長渡し」に、それ以上の資料、記録には辿りつけていないけど
ハッキリと見える
「大間渡し」で対岸に渡り、「安長渡し」で石手川を渡る【みち】がハッキリと見える
学校橋を示す破線(概略図)の北岸地点に立つと、ほぼ一直線の先に日招八幡神社を見通すことができる。
市坪の鎮守、素鵞神社は日招八幡神社の末社で
もとは(現在 県武道館から傍示川を渡り中央公園へ入ったところあたりに所在していた)と言うこと。(地元自治会の方より伝聞)
「神幸(みゆき)」の道が見える…