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2015/02/28

【川の記憶】 「安長渡し」「大間渡し」(重信川渡し)

公園建設前の市坪西町概略図 〈耕地整理図写し〉

JR予讃線 市坪駅(愛称”野・ボール駅)から松山中央公園へ入ったところに建てられています。

白抜き「安長渡し」「大間渡し」は筆者
       ⬅️河口方                              北⬆️                           上流方➡️
                                                    南⬇️

現在公園建物との位置関係を対照するために学校橋(赤字)をプロット


▪️安長渡し▪️▪️

概略図には「学校橋」としか刻まれていませんが、「学校橋跡」標柱に「安長渡し」の記述がありました。

「江戸時代から明治時代にかけて郡中方面から松山方面に行く人の多くが行き来していた【安長渡し】に代えて…」


▪️大間渡し▪️▪️

概略図に刻まれています。
二年前に中央公園側の土手に、その跡を探したことがありますが発見出来ませんでした。
その時、南岸(松前町。さらに南西方は郡中になります。)に標柱のあることを教えてもらったのですが…
きょう訪ねてみました(^^;;

「安長渡し」の記述は、前記の学校橋跡標柱の他に見ることは出来ていませんが
「大間渡し」については次がありました。


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大間渡し

 昔、松山と南予を結ぶ道路は、重信川にさしかかると渡し船を利用せねばならなかった。数名の人が権利株を持ち、3人ほどの船頭を雇い運営していた。
 明治20(1887)年には、営業規則ができていた。
 重信川渡しは、塩屋渡し・北川原渡し・出合渡し・大間渡し・中川原渡しの5ヶ所であった。
 重信川渡し跡には、松前町教育委員会により渡し跡を示す木杭が立てられている。


河川伝統技術データベース:分類別リスト【舟運】


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「重信川渡し」
5ヶ所を上流方から並べると
中川原渡し」「大間渡し」「出合渡し」「北川原渡し」「塩屋渡し」

                                  中川原橋(南詰)から堤に降りて河口方を見る
                         坊ちゃんスタジアムが見えます。

堤に降りて、すぐ右手に標柱が建てられていました。
▪️重信川渡し跡(中川原渡し)▪️▪️
                        画像の奥手が上流方、中川原橋が見えます。

                                               標柱から対岸を望む。


初期の堤に県道が走っています。

県道335
松山川内自転車道線


河口方へ
JR予讃線重信川橋梁を越えて先に進んだところで
列車の響きに振り返ったらアンパンマン列車が松山方面に入って来ました。
(嵩上げされた上段の堤から撮影)
(左下に下段の堤をジョギングされて方の姿が写っています)

対岸の景色
チガヤの向こうに坊ちゃんスタジアム
スタジアムの手前(川側)に空港と松山ICを結ぶ高規格道路が建設中
あっと言う間に景色は変化、移ろいます…

上段の堤から下段の堤への景を見ると、
二段堤で嵩上げされているのがよく判ります



(上の堤よりの景)
対岸(北岸。市坪西町。)中央に写っているのが競輪場、右手に瓦屋根の県武道館が見えます。
手前南岸)
画像の中央に標柱があります。

「重信川渡し跡」の表記しかされていませんが、
「大間渡し」の跡に違いありません。

▪️重信川渡し跡【大間渡し】▪️▪️

【中川原渡し】から二つ目の標柱から河口方の景色(
上の堤から)

橋が見えます。
「であい自転車道橋」です。
対岸の市坪西町の西端に跨り、石手川南岸の自転車道と繋がります。
※石手川、傍示川が重信川に出合う(合流)する地点

「であい自転車道橋」の更に加工方にR56の出合大橋
その先に旧56号線の出合橋、その先に河口大橋、そして伊予灘に流れ込みます。

前記の通り、河口方
中川原渡し」「大間渡し」「出合渡し」「北川原渡し」「塩屋渡し」

「出合渡し」は旧の出合橋辺り、「北川原渡し」「塩屋渡し」は、そのまた河口方にあるとしてよいと思います。





===
往還は川の流れに沿って生まれて
対岸、向こう側にわたるとき橋が、渡し(船)の道が生まれたんだと言ってよいとおもいます。

新しい道が生まれたら、景は一変します…

しかし、道(川)が変ぼうしたとしても
道(川)が刻んできた記憶を風化させてはいけない
いや、むしろ変ぼうのスピードが速くなる今こそ、記憶を記録し、それに想起・実践する
ことが大切なこと

記憶の川の流れを止めてはいけない

=========⬇️メモ

突飛な思いつきと言われれば、確かに夢の夢のような話だけれど

「学校橋跡」に記されいる「安長渡し」に、それ以上の資料、記録には辿りつけていないけど
ハッキリと見える
大間渡し」で対岸に渡り、「安長渡し」で石手川を渡る【みち】がハッキリと見える

学校橋を示す破線(概略図)の北岸地点に立つと、ほぼ一直線の先に日招八幡神社を見通すことができる。
市坪の鎮守、素鵞神社は日招八幡神社の末社で
もとは(現在 県武道館から傍示川を渡り中央公園へ入ったところあたりに所在していた)と言うこと。(地元自治会の方より伝聞)

「神幸(みゆき)」の道が見える…



ジオの道…
(未定稿)













2015/02/26

安長堤のこと① (愛蓮山 玉善寺)

「四国災害アーカイブス」に、次のように記載されています。

元和6年(1620)6月、洪水により、市の坪が全部浸水した。石手川のつけかえ直後は市の坪に被害が集中した。市の坪の郷士安長九郎左衛門は財産を投げ出し、自力で堤防を修築した。さらに、延宝6年(1678)には、藩の援助を受け、堤防の復旧工事を行った。この時の堤防が「安長堤」と言われるものである。
http://www.shikoku-saigai.com/archives/17051

※「市の坪」は「一ノ津」が転じたもので、市坪となりました。現在も私年代くらいまでは「いちのつぼ」と呼ぶことが多いようです。(わたし現在67歳)

安長九郎左衛門の墓所が、玉善寺(松山市市坪南)に祀られているとあり、お訪うて見ました。
写真の右手(東)に見えるネットは松山市立椿中学校。
周囲は住宅街になっています。

愛蓮山 玉善寺
真言宗 
本尊:如意輪観世






縁起を読めば、末寺ではありますが松山藩主との関係など旧い歴史を有していることが判ります。

山門の脇に延命地蔵堂


境内、本堂の横に小さな祠(建て替えられていますが)があります。
三社大権現

吉野大権現ー本地佛ー観音菩薩
熊野大権現ー本地佛ー大日如来
愛宕大権現ー本地佛ー地蔵菩薩


明治初年 松山▪️▪️設置の際 
松山城山麓に(掌)祠ありしを 城下在住 本田善左衛門が願受(し)当寺に勧請した
以前は松山の古老が椿祭(の)帰路に よく参詣したよしである

▪️は判読できず
()内は(?)
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今日(2015/02/26)は旧正月八日、椿祭の例祭日であるが…
この足で椿祭へ詣るのは止すことにしました^^

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本堂の北側が墓地になっています

墓前に感謝を捧げました

(写真は省略)










2015/02/16

渭南海岸にて③ 叶崎(かなえさき)ウバメガシ林 に咲く”唯の花”

▪️ウバメガシ▪️

ウバメガシは幹がきわめて硬く炭にすると,他の木に比べ高い熱を発することが古くから知られており,古くから備長炭の材料として用いられてきました.紀伊半島と四国西南地域にのみ自生していますが,海に近い弦場の森とよばれるウバメガシの群生地は魚付林としてして栄養分を海に注ぎながら,森の主人のようなウバメガシの巨木がその森の奥深くに残されています.


(牧野富太郎の道を歩く http://www.makino-navi.com/otsuki_area_list.php  より)

太字は引用者)】


===

2月11日(2015)

叶崎灯台への入り口は、ウバメガシがアーチのようです。



▪️ヒトツバ▪️
そのアーチをくぐり灯台までの遊歩道はウバメガシ林の中を縫う途、道沿いにヒトツバが群生しています。

ヒトツバは暖地の海岸に多い常緑のシダ。日本では関東地方以西の本州、四国、九州、南西諸島に、世界では東アジアの暖温帯から亜熱帯に広く分布する。海岸から沿岸域の急傾斜地や岩場に群生し、時として平地にも生育する。ウバメガシ林の林床に密生していることも多い。葉は厚くて丈夫であり、長い地下茎から所々に形成され、葉柄を含めて長さ40cm程度にまでなる。裏面に胞子嚢を密生する胞子葉と通常の葉を形成する。和名はシダ植物の多くが羽状複葉になる中で、複葉にならないことに由来するが、時として葉の先端がいくつかに分かれる事もある。…
(太字は引用者)】


▪️ノジギク(野路菊)▪️
盛りの花期は過ぎていますが、ノジギクが葉のミドリを輝かせています

ウバメガシ林が海からの冬風から保護して
常緑の葉を通して冬の陽を優しく注がせているからでしょうね(^^)




ノジギクは牧野富太郎博士により1884年に見出され、1890年にその名がつけられました。
見つけた場所が高知県の吾川村川口という山の中だったので、その名も”野路菊”となりましたが、本来は海岸沿いに多い植物です。兵庫県を東限とした本州の瀬戸内側、四国では香川県、愛媛県から高知県足摺岬をまわり、南国市前浜まで、また九州の東海岸に分布します。ただ、高知県においては南国市の東側を流れる物部川より東には野生では見られません。

▪️ゴンズイ▪️
臭木(クジュナと呼んで若葉を食します)の実に似ていますが…



臭木は秋に綺麗な瑠璃色の実を着ける。
ググってみたら、ゴンズイも秋に実るとある。そして「黒臭木」の名もあると!

これも、ウバメガシ林に優しく守られて越冬したゴンズイの実ですね(^^)

▪️ツワブキ(石蕗)▪️


ツワブキは石蕗

”ツワ” その名の ”艶” を 輝かせています
路傍に”意志”の花を咲かせます



ウバメガシ林は魚付き林
海の魚を護ります
そして足元の草花も育みます

自然の共生力に共感し、そして共生していきたいです(^^)

共感!
共生!










2015/02/14

渭南海岸にて② 叶崎 (かなえさき)で出会った【唯の花】【叶崎灯台の灯火】 【夕陽の景】

叶崎” は「かなえさき」



国道321号線を愛媛県から高知県に向かうと、宿毛市、大方町を通り土佐清水市へ入ります。
すぐ海岸方向に旧道がありますが、そこを進んだところが叶崎。
小さな岬ですが、「西の足摺岬」とも称される岬です。

【唯の花】
その”かなえさき” で出会った花。
茎を蔓状に這いつくばらせて、唇形の小さな花を同じ方向に立てて咲いています… 
はじめて出会った花です


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コバノタツナミソウ(小葉の立浪草)

海岸沿いや丘陵地に自生する多年草。タツナミソウの変種で全体にひと回り小さい。名前の由来は、葉が1cm程と小さく(タツナミソウは1.5-3cm)、花が一方向を向いて重なりあう様子を打ち寄せる波に例えた。別名のビロードタツナミは、葉に毛がありビロードのように見えることから。4-5月に茎先に花穂をだし、2cm程の青紫・白色の唇形の花をつける。

シソ科タツナミソウ属
耐寒性多年草

開花が4ー5月とあります。叶崎は暖かい地方と言えますが、訪れたのは2月11日・・
3年前の私だったら、ここで「コバノタツナミソウ」とするのは棄てていたと思いますが

この3年間、山の畑で鍬を打ち、種を蒔き、野菜の生長と向かい合うなかで、”おのればえ(自生)” の、”根っこ” の生命力、”宿根草”の生き様と向き合うことができました。

また、大好きな海辺の花、ハマナデシコ(浜撫子)。6月から秋が花期とされますが、厳寒にも花を着け種を育てる宿根草であることを体験のなかで学びました。

叶崎で出会った花の蔓状に這いつくばる姿は、花、葉の形状を超越して、そのハマナデシコに似ています。
海岸沿いの野草に共通する生き方のひとつと言って良いのかも

花期(旬)を外れた時期に花を咲かす…
しかし、それゆえにこそ、その生命が輝やいて訴えかけてくるものがあるのも確かです。
だから心惹かれる・・

生(き)を生き(いき)続けて生命(いのち)に生る(なる)

這いつくばった姿から、そんな無声の声が届いてきます
野に自生する草花から同じ声を聴くことができます。

そんな草花たちを唯の花と呼んでいます。
コバノタツナミソウとの初めての出会いは、嬉しい出会いです。

==
あ。
この出会いも

ネットで検索した画像では、「タツナミソウ」と「コバノタツナミソウ」の区別はできません。
寸法は示されていても、ピンときません。
コバノタツナミソウだと確信的に書いているのは、この出会いがあったからです。

Facebookの「野の花」Gに「コバノタツナミソウだと思うのですが…ご教示お願いします」と投稿したところ
「葉の形状から判断して、コバノタツナミソウだとおもいます」とコメントをいただきました。

お礼のメッセージを送って、友人リクエストをしましたら「了解しました」と

この出会いがあったから、これはコバノタツナミソウだと確信できたんです。
嬉しい出会いです(^^)



【叶崎灯台】
先に、「崎は”西の足摺岬”」と称されていることを書きましたが
叶崎にも灯台があります。

明治四十四年八月二十日、足摺岬灯台よりひと足早くこの灯台が高知県によって建設、点灯されました。」とあります。(ちなみに足摺岬灯台の設置、初点灯は大正3年4月1日)

「この灯台は、ほとんど建設当初のままの姿を残している現用灯台の一つで、明治の面影を今に留め、今日なお、足摺岬と宿毛間を航行船舶にとって重要な航行援助施設として役立っています。」と記されています…

読み返し、読み返し、熱いものがこみ上げて来ました。
それは、叶崎灯台に守られた人びとの叶崎灯台への深い愛着、大なる誇りの想いが、文章の一字一句に刻まれているから…だから心に響くんだと思います。

高さ8mの大きな灯台ではありませんが、白亜の八角形は重厚な存在感があります。





今日の訪問は、足摺岬からの帰路だったのですが、17時を少し過ぎたころ、太陽が西の海へ傾き始めていました

灯台の灯火を、その足元から見上げ見ることができました。

「光源は、石油灯からアセチレン・ガス灯、そして電灯と改善されました。」と記されています。
灯質は変遷しても、初点灯から今日に至るまで灯り続けて、沖ゆく船舶を導き続けている灯火は、ずっと灯台の使命を全うし続ける灯火
その灯火に出会うことができました。

「光達距離 十三・五海里(約二十五キロメートル)」の叶崎灯台の灯火


【叶崎で出会った夕陽の景



2.11.2015
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2015/02/12

渭南海岸にて① 土佐サンゴ発祥の地の童唄 ”お月さん ももいろ…

”渭南(いなん)”
高知県の西部(幡多)から愛媛県南部(南予)にかけての地域を渭南地方と言います。
小学生のとき渭南方言は標準語に近いと言うことを聞いた覚えがあります。

2月11日
(愛媛県より)国道56号から国道321号線を宿毛市から大方町へ。
山間の道を抜けると海岸線になり右手(西)に海の景が広がります。

渭南海岸
(幡多郡大月町小才角)

”さんご採取発祥地記念像”
”お月さん
ももいろ
だれがいうた
あまが いうた
あまのくち
ひきさけ”

案内板「土佐サンゴ発祥の地」に
「小才角の地に今に唄い継がれる童唄とありますが、五木の子守唄、竹田の子守唄に共通する哀調のメロディーが浮かんで来たりしました

寄せる波音にも交じって聴こえてきました…

また何時の日にか
ゆっくりと、ゆっくりと声を聴いて歩きたいと思います

たいせつなこと
忘れてはいけないこと
ジオ”

歩き続けなくてはいけない…


2.11.015