「四国災害アーカイブス」に、次のように記載されています。
元和6年(1620)6月、洪水により、市の坪が全部浸水した。石手川のつけかえ直後は市の坪に被害が集中した。市の坪の郷士安長九郎左衛門は財産を投げ出し、自力で堤防を修築した。さらに、延宝6年(1678)には、藩の援助を受け、堤防の復旧工事を行った。この時の堤防が「安長堤」と言われるものである。
- http://www.shikoku-saigai.com/archives/17051
- ※「市の坪」は「一ノ津」が転じたもので、市坪となりました。現在も私年代くらいまでは「いちのつぼ」と呼ぶことが多いようです。(わたし現在67歳)
縁起を読めば、末寺ではありますが松山藩主との関係など旧い歴史を有していることが判ります。
山門の脇に延命地蔵堂
松山城山麓に(掌)祠ありしを 城下在住 本田善左衛門が願受(し)当寺に勧請した
以前は松山の古老が椿祭(の)帰路に よく参詣したよしである
▪️は判読できず
()内は(?)
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今日(2015/02/26)は旧正月八日、椿祭の例祭日であるが…
この足で椿祭へ詣るのは止すことにしました^^
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本堂の北側が墓地になっています
墓前に感謝を捧げました
(写真は省略)
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