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2013/10/28

【棚田にキャンドルが灯る】 日本棚田百選のひとつ「堂の坂(どうのさこ)棚田」(西予市城川町田穂(たお))に1500基のキャンドルが灯されました。

【棚田にキャンドルが灯る】


日本棚田百選のひとつ「堂の坂(どうのさこ)棚田」(西予市城川町田穂(たお))に1500基のキャンドルが灯されました。



棚田の規模
延長1850m、53枚、1.5ha


「田穂ふるさとを守る会」(4年前に結成。会員10名)が中心に企画し、26,27日に初めて実施したもので全くの手探りだったが、子供たちを始め地区挙げての協力を得て実現できた。こんご地区の行事として定着させていきたい。と、会長さんからお話しを聴かせていただきました。

先日には、四国西予ジオパークが日本ジオパークに認定され、「堂の坂棚田」はジオポイントにも数えられ、近くには日本最古級のアンモナイトの出土があり、また茶堂も並んであります。
(未勉強ですが、「堂の坂」の名は「茶堂」を巡る坂に立地しているところに拠るものと思います。)

これらの(ジオ)ポイントを有機的に結び繋いでいくことが、
思い付きですが、棚田キャンドルライトに併せて茶堂でのお接待、
実盛様送りの話、サルバイの話などの民話伝説を聴いてもらうなど
今後の課題のひとつになるのでしょうが、
その基盤は何と言っても地域の情熱(共生、共感)換言すれば「おらがフルサトはおらが守る」の気概と言ってイイとおもいます。
その意味合いから、「田穂ふるさとを守る会」に出あえたこと、力強く、嬉しかったです。

会長さんにお話しを訊こうとしたとき
「ま、食ってから」
振舞っていただいたオデン
美味しかったです^^

ありがとうございました^^




アルバム【棚田にキャンドルが灯る】

↓写真あるいはタイトルをクリックしてご覧ください

【棚田にキャンドルが灯る】

2013/10/25

『鉄路の夢 「宇和島鉄道」物語』  

先日(10月20日)、吉野生(よしのぶ)の交流促進センターで開催された「宇和島鉄道全線開通90周年記念事業」講演を聴講しました。

タイトルにした『鉄路の夢 「宇和島鉄道」物語』は、記念講演のそれです。
ボクは、撮り鉄、乗り鉄と呼ばれるような熱心な鉄道マニアではありません

『鉄路の夢』あるいは『鉄路への想い』

ボクの中にある、鉄路、電線への思い込みは
A地点からB地点へ、そしてC,Dの地点へと結び繋がっていくこと、点が線に繋がって行くことへの漠然とした憧れのようなものなんですが^^;

たまたま開催を知った記念事業に行ってみようと思ったのは、小3のおり初めて独り汽車行をした江川崎線(現在の予土線)の前身が、この私鉄宇和島鉄道であること(これまで知りませんでした)と
もうひとつの関心は、事業の主催が行政でも、JRさんでもなく地域の任意グループであると言うことにありました。
西南四国歴史文化研究会の松野(町)支部の方々の発意によるものとのこと
お歳のことを話題にするのは失礼ですが、実行委員長でご講演いただく矢野和泉氏は84歳・・
その語られる『鉄路の夢』あるいは『鉄路への想い』を是非にも聴講したい
その情熱を直に感じてみたいと思ったのでした


以下、聴講録とはいきませんが
備忘のために感想などを加えて整理して行きたい(行ければ)と思います^^;



【宇和島鉄道・主要年表】(講演レジュメより)
明治27年 玉井安蔵、今西幹一郎ら、宇和島ー吉野間25.1kmの鉄道敷計画
  29年 宇和島鉄道会社設立(資本金26万円)
  38年 解散
※資金難が原因であったとのことだが
日本初の鉄道開業が明治5年(新橋ー横浜)を見れば、この時期に宇和島において鉄道建設が計画されたことが意義深く思われる。郷土建設への滾る熱い思いを感じる。       

明治44年 宇和島軽便鉄道会社設立今西幹一郎他9名発起。資本金40万円)
      翌45年社名を「宇和島鉄道会社」と変更

大正  3年 宇和島ー近永間で営業開始(レール幅76.2cm。ドイツ製コッペル機関車)


往時の近永駅と軽便列車

※「マッチ箱」と愛称されたと。現・宇和島駅前に展示されている


二枚の営業開始ポスター

十月十七日 営業開始

      






















十月十八日 営業開始
























果たして真実の営業開始は?

Wiki「予土線」の年表には、「1914年(大正3年)10月18日:宇和島鉄道により宇和島 - 近永間が開業。」となっている。

ポスターをよく見ると
10月17日開業のモノには、社長 今西幹一郎とあるのが
翌10月18日開業のモノは、副社長 今西幹一郎と肩書きが変更されている

社内の権力闘争の結果ではなく、やはり資金不足を補うために県外資本を導入したためのものと言うのが実相のようである。

名(地位)より実(鉄路に機関車を走らす)を取る英断、夢の実現への熱意を想う



大正 5年 宇和島駅移転
当初の駅は和霊神社と城北中学校の間にあったそうだが、これは海運との関係を考慮したものであったそうだが、より良い利便、地域振興の観点から現在地へ移転されたとのこと。
敷地の大半が役員所有のものであったことから、とやかく言う声も聞いたが先見の明を評価すべきとは講師の談である。

大正 9年 近永ー吉野間8km延長認可、工事開始へ

(近永ー出目(いずめ)ー松丸ー吉野)
奈良川橋梁の工事


出目~松丸の線路工事


出目峠の掘削


大正12年 近永ー吉野間が竣工して宇和島鉄道全線開通
(12月12日)


吉野駅 表側


吉野駅 線路側

この開通による経済効果は大きくて、高知県との交流も活発となり
松丸の人口は5千人を、吉野生は4千人を突破したと言う(講師談)

昭和30年に合併、松丸町の松と吉野生村の野をとって松野町となったのですが、わたしには松丸、吉野生の名の方がピンとくるものがあります。
(’13推計人口 4,187人)

昭和 8年 宇和島鉄道を88万円強で国鉄が買収。日本国有鉄道に編入。
     吉野駅を吉野生駅と改名。




現在の吉野生(よしのぶ)駅






以下の年表はWikiより

1933年(昭和8年)8月1日:宇和島鉄道が国有化され宇和島線となる。宮野下駅を伊予宮野下駅に、中野駅を二名駅に、吉野駅を吉野生駅に改称。

1941年(昭和16年)7月2日:全線を1067mm軌間に改軌。宇和島 - 務田間の旧線を廃止し、北宇和島 - 務田間の新線が開業。北宇和島駅が起点となる。旧線上にあった高串駅、光満駅廃止。

のちに予讃線となる宇和島 - 卯之町間が開業

1953年(昭和28年)3月26日:吉野生 - 江川崎間が開業

※昭和24年生の私には江川崎線の名が懐かしいのだが、その呼称は正式なものではないようだ。
高知県と鉄路が繋がった達成感、高揚感のようなものが、そんな名を産んだのかもしれない

1960年(昭和35年)10月1日:真土駅開業。

※真土(まつち)の名が記憶に強く焼きついている。
小学校の5年か6年生のころ、宇和島から近永の祖母の家にレールバス(当時、SLに代わってレールバスなるものが走っていた。貨客の減少に対応したものだったとか)に乗ったが、寝過ごしてしまって真土の駅票だけのプラットフォームに慌てて飛び降りて、近永行きが戻ってくるはずだ、来るはずだとレールバスの姿を待ったことがある

1974年(昭和49年)
3月1日:江川崎 - 若井間が開業し全通。予土線と改称。


第二次世界大戦後に愛媛(伊予)と高知(土佐)を結ぶことを目的に2回に渡る延長が実施され、1974年(昭和49年)の全線開通に合わせて旧国名の頭文字をとって予土線とした。愛媛と高知を結ぶ鉄道はこのほか松山 - 佐川間[5]や宇和島 - 宿毛 - 中村 - 窪川間[6]などが計画されていたが、実現したのは予土線だけである。
(Wikiの記述を転載)

9月:CTC化。
10月1日:貨物営業廃止。

1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により四国旅客鉄道に承継。

=====


2013年(平成25年)10月5日運航開始!
元祖トロッコ列車 しまんトロッコ 
デザイン一新リニューアル!!



恵まれた沿線風景を旅客誘致につなげる目的で、国鉄時代の1984年から、トロッコ列車「清流しまんと号」の運行が開始された。国鉄・JRグループとしては最初のトロッコ列車で、以後各地の国鉄・JR線でトロッコ列車が運行されるようになった。(Wiki「予土線」沿線概況より)(太文字引用者)

日本最初のトロッコ列車で30年の歴史を有するが、モータリゼーションの進展に伴って、地方鉄道事業の衰退を示すものともいえる

おらが地域の発展の夢をのせ敷かれた鉄路は・・





熱を込めて語られる講師

熱心に聞き入る聴講者

来賓席には、開催地の松野町町長をはじめ予土線沿線の宇和島市長、鬼北町長、高知県四万十市長さんも臨席されている

宇和島鉄道の開通を礎としたJR予土線への想いがヒシヒシと伝わってきた



四国循環鉄道線路縮図大正九年八月写 とあります。)


愛媛県における国有鉄道既成線は、香川県高松から川之江、そして三島(伊予三島)までで、北条までが国有鉄道工事中となっています。
県内で私設鉄道既成線が見られるのは松山市から伸びる4線(今もある高浜線、横河原線、郡中線と今は廃線となった森松線)と長浜~五郎~大洲の線と、
宇和島~宮野下~旭(近永のことだと思います。祖母が使ってた竹の状差しの裏に旭村の名が記載されてたことを覚えています)。そうです、1914年(大正3年)10月18日に開通した宇和島鉄道の鉄路です。

この年代に既に四国循環鉄道の絵が描かれていることに、新鮮な感動を覚えます。

拡大してみると宮野下から卯之町への鉄路が計画されています。
現には北宇和島駅が新設され、そこから卯之町へと鉄路が繋がるのですが

現在の予讃線が東から西へ、そして南へ伸長されたのではないことが解ります。
宇和島から夢を育み始めたのです!

それと、
卯之町から坂石へ
坂石と旭を鉄路で結び繋げる・・

何と夢のスケールの大きい事!


想い、夢を描くのは、あるいは容易なことなのかもしれない
絵空事と嗤うのは容易い

しかし
夢の実現への道は険しく、またその持続存続もまた厳しいのが現実なんだろうけれども

その険しさ、厳しさの克服が新たな夢への出発なのだと思う



あいかわらず纏まらないけど^^;
感動を一過のモノにしないために
夢を持続させるために記す

2013/10/16

「花は葉を想い 葉は花を想う」 彼岸花

急に秋の深まりを肌に感じるようになりました。
彼岸花も花を仕舞って花茎を倒して来ています。

10/15 魚成 田穂川の河岸で




猛暑の夏があっても
10月に入っても真夏日が続いても
野の草花たちは時の移ろいに従い季節を生きています。

中の畑の花壇の草取りをしてたら、
春に葡萄の果実に似た釣鐘型の青紫の小花を房状につけるムスカリが葉を伸ばしています。
雪の中でも春の訪れを知らせてくれる水仙も
夏に地上から姿を隠したワイルドベリーも、茎を朱に輝かせ緑葉を見せてくれてます。

10/15 魚成の畑で



青い葉が育って、花茎が伸びて花が着く
何の疑いもなく、そう思っていたんですが

彼岸花
秋のお彼岸が近付くと、それを知らせるように咲く彼岸花
葉もなく節もない花茎を突然のように地上に突出させてきます。

9/19 石手川の土手で

花茎が伸びて莟が赤くなってます。

地上に顔を出してかなり経っていると思います。


地上に顔を出した時は、まだ青い色をしてますが、地中で莟になったのかな?
丸みを帯びた柔らかい感じすらする姿です。
9/19 石手川の土手で
お彼岸のころに、突然のように葉も節もない花茎を伸ばし花を咲かすからでしょうか
彼岸花には、「死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)など不吉な異名も多くあります(Wikiを参照)」

一方、別名の曼珠沙華は、法華経などの仏典に由来すし、「天上の花」という意味も持っており(Wiki参照)「天上花」「天涯の花」の異名もあります。

異名の多さは、それだけ多くの想いが彼岸花に寄せられていることの顕れとイイと思うのですが・

ところで、
花を枯らして花茎を倒した姿になった彼岸花の周囲に、美しい緑葉が伸びていますが
これは彼岸花の葉っぱだそうです。65にして初めて知りました^^;

10/15 深いミドリと柔らかいミドリをスッと伸ばし初めた彼岸花
花を枯らしたあと、グングンと葉を伸ばし冬を越し,
5月には葉を枯らし地上から姿を隠し
秋のお彼岸のころに突然のように莟を地上に現す

「花と葉が同時に出ることはない」という特徴から、日本では「葉見ず花見ず」とも言われる(Wiki)そうですが

隣国の韓国では、
花と葉を同時に見ることはできない。  葉のあるときには花はなく、  花のときには葉がない。  このことから 「サンチョ(相思華)」と呼ぶそうです(季節の花300 より)



同時に同じところに居なくても、

いや居れないからこそ
より強く固く想い合う

花は葉を想い 葉は花を想う


魚成シャエンバの「misasi堤」に、彼岸花の芋を移植して育てよう

2013/10/02

農人日誌 9月 「ようやんなはっとるな」

9月は
17日から21日まで
そして、25日から月末30日まで
ま、その間に21日は四国西予市ジオガイド講習、28日には雨包山自然観察会に参加もしたりしながらだけど^^;


畑作業の目標の第一は荒れてしまった畑を畑にもどすこと
畑に一ヶ月以上もくることができなくて、今年の前半を掛けた下の畑の開墾は、胸の高さにまで伸びた雑草の中に消し去られてしまっていたから


最初は、どこから手を付けてよいのか、それが判らない
上と中の畑に絞って、下の畑の耕作は放棄しようかとさえ思ったりもしたのも事実ですが

9/26
中の畑

下の畑


眼前の障害に目をつぶって何が農人
雑草が障害なら、雑草を取ればイイ
草を取って、土を起こして、それを繰り返したらイイんだ
イイと思うことをやればイイ


(褒めてやってもエエじゃろか^^)

甘い自己評価だけど^^;
そんなことを思えた30日のお昼過ぎ、

田穂川を挟んで畑の真向かいの宿舎側の川縁にカワセミの姿が
エメラルドブルーが耀いた

カメラを取りに行ってくる間、おなじ場所で

川面を見つめ

空を見上げ

待っといてくれたんやろか^^

数枚シャッターを押したとき、川面にエメラルドブルーを耀かせ葦の茂みのなかへ

飛翔の姿はとらえることができなかったが・

(そう、あの時もだ。)
そう、二度目のカワセミとの出会いです

ブログを繰ったら、今年の6/9のこと 「水面にエメラルドブルーが!かわせみ!?」

最後に、こんなことを書いてます。

カワセミ

奥伊予の畑に立ってもうすぐ満一年

初めて出合ったカワセミ


カメラを提げて出歩くようになって5年・

教えていただいたカワセミのスポットを訪ねたことも数多いが

初めてカメラにおさめることができたカワセミ

(畑になったね)

そう語りかけてくれたように思えた

(ありがとう
鍬を振り続けていくよ)

そう呟いたとき、水面にエメラルドブルーが・・

飛翔の景にシャッターを押すことはできなかったけど

鍬を振り続けて行こう

きっとまた逢いに来てくれるだろう

念じ続けよう



念じ続ける・・

何を念じて来ただろうか・・・


昼食を済ませてから
枯れ草に二度目の火をいれた
倉庫で見つけた大きなフォークのような道具で起こし切れてない根っ子をかき集めて燃やした

画像は15時すこし前

このまま天日で乾かしたらイイかなとも思ったが
燃やしガラを放置したままなのは・・
乾燥した日が続いているし風もある
そして今夕には松山へ発つんだから

16時

写真を撮ってたら、

「ようやんなはっとるな」

マサルさんの声だった

「藁は小屋に入れとるけん、要るだけつかいないよ」


この後、水遣り
顔に掛かる飛沫が、熱く塩っぽく感じられた



念じ続ける

何を念じて来ただろうか


泣き虫なんだから、泣き虫でイイじゃないか
農人になりたい
農人でありたい
それがmisasiの思い願いつづけていることではある





「ようやんなはっとるな」畑になってきたね。続けていってね。)
カワセミの声が聴こえてくる^^













また、魚成の畑で鳴いてくれ^^

2013/07/29

大野ケ原の龍王神社・小松ケ池 memo

7/27四国西予ジオガイド講座で大野ケ原へ

ジオポイント 龍王神社、小松ケ池


龍王神社より引用

 詳細は未詳であるが、創祀は承応4年と伝えられる。往古より小松ヶ池(現神社裏池)に龍住めり、この池は神霊池として伝えられ、旧大洲領八ヶ村の雨乞い祈祷場所であった。明治37年この地が陸軍演習地と成りし時、75日間大雨・大風が降り続き、龍神の怒りと恐れられ、二間角の宮を建て、奉納角力(すもう)などを行い、龍神を慰め献奉れば、直ちに晴天白日となったと伝えられる。又、この池には見る度に位置が変わる小島(浮島)があり、社名を浮島神社と称されていた。
 昭和3年4月、社名を龍王神社と改められ、現在に至る。

龍王神社・小松ケ池より引用

竜の神様として信仰を集める龍王神社

この神社には「その昔、土佐の米商人の娘・小松が、父が財産を増やすために不正を行っていることを知り、悲しみのあまり池に身を投じた。その後、小松は龍となり、池の主となった」という伝説が残り、水を司る竜の神様として信仰を集めています。海とは無縁の高地の神様であるのに、漁業・商売などの神であり、海難・干ばつ除けのご利益がある、とても珍しい神社です。
また、神社の裏手にある小松が身を投じたとされる小松ヶ池は、世界的にも珍しいドリーネに水が溜まってできた池です。水面には澄んだ水にのみ自生するという珍しいジュンサイが生え、この池に豊かな水量と水質があることを物語っています。






ドリーネに水が溜ってできた池に浮かぶ浮島

小松ケ池の鳥居

鳥居越しに小松ケ池


龍王神社の社殿で  お遍路さんが南無大師遍照金剛を唱えている!!

お大師様と神の境地へ同行二人・・

お大師様信仰と言うことで茶堂との関連を考えるのも面白いかも




八幡浜沖の大島と大野ケ原を往き帰した龍がいて、その龍が憩ったと言い伝えられる淵が(八幡浜市)双岩あるが

龍王神社に、その伝承はあるんだろうか。

八幡浜大島には竜王池がある。


===

龍王神社境内に咲いてたヤブカンゾウの花


小松ケ池で
 ジュウヤク
ガクアジサイ

2013/07/02

穴神鍾乳洞・川津南やっちみる会

【四国西予ジオパーク構想】

6/29、ジオガイド養成講座で、穴神鍾乳洞(西予市城川町川津南)へ。


■穴神鍾乳洞
中生代ジュラ紀の石灰岩にできた全長約300mの鍾乳洞に75mの遊歩道が整備されている。
洞窟下部は上部とつながっており、小規模ながら石筍、石柱、つらら石、フローストーンなどが大切に保存され、鍾乳洞の世界を楽しむことができる。
また、洞窟上部には、縄文早期の土器や貝殻の装身具を多量に出土し、長期にわたる住居跡であったことが明らかにされている。
(講座資料)







 【 写真アルバム】(24枚)
 ↓の、画像か、タイトルを、クリックしてください。              
穴神鍾乳洞


【スライド・ショウ】



鍾乳洞を抜けたら
         お^^
川津南やっちみる会 の高山くんが^^

今日は講習中につき、ちょこっと挨拶をして
昼食、午後の模擬ガイド実習会場の公民館・川津南分館へ行くと
          お!^^
やっちみる!

(とにかく やってみる)の意

やっちみる会の素晴らしいのは地区あげての活動であること。
地区住民は全員加入であると聞いたことがある。


昼食も、やっちみる会さんの手作りピザに料理^^

トッピング具材も地元産のピザ
トマトソース、カレー風味、餅入りと3味^^




人参マリネ、地鶏のサラダも絶品でした。
講習中でノンアルでしたが^^;

ごちそうさまでした!^^


☆☆手作りのピザ窯は、なんとしても見せていただくては・・一人探検^^


(あれ。もう頂いたのに)とカメラを向けたら

「どんなやったですか」
「まだまだ つくっとるよ」



「どんなやったかの。しろとピザじゃけん」
「一枚づつ焼くけん、ゆっくり食べよ」







(おいしかったです^^ ありがとうございます!)


往還



鍾乳洞に入る前のガイダンスのなかで、やっちみる会のエビスさんが

「あの山の向こう側は梼原です。
九十九曲峠があって黒瀬川は、そこを源にこっちに流れて来てます

竜馬脱藩の道は、こっちだと(※他に河辺村ルートあり。)若いモンが頑張ってますが・
吉村寅太郎が九十九曲峠からこちらに入って来たのは確認されています・・」


高山君が
「あそこをオウカンが、とうとったんです」(往還が通っていた)

「トンネルを抜いて国道をこっちに通す話もあったみたいですが」
(R197は城川町から少し西に迂回するかたちで日吉村に入り、そこから東に高知・梼原に通じている)

「トンネルが抜けとったら、僕らもここに残ってなかったかも・・」


・・・・


トンネルが抜けなかったから、守られたものがある

それは心を流れる往還と言い換えて良いんじゃないかな

心の往還を歩き続けること
 それが一番たいせつなことだと思う





・・・・
神社の山


「あの山に神社があるんです。下まで行って見てください」と、高山くんが
「なんて山ですか?」尋ねたら
「え~っと
  エビスさん、あの神社の山、なん言うたかな?」
高山君がエビスさんに声を掛けたら

「う~ん、神社の山よ」(エビスさん)
「そうよな、神社の山よな」(高山くん)





こんど、三柱神社の石段を上ってみたい

こんど、黒瀬川の源に立ってみたいと思う

心の往還を歩き続けること
 それが一番たいせつなことだと思う