いろは歌
七五調の「色は匂えど散りぬるを」から始まる歌。
音の異なる47文字から成り、同一の文字の重複がないように作られた。
手習い歌のほか、順序を示すのにも使われた。
10世紀末から11世紀中ごろに成立した・・(以下、略)(上掲載、写真の解説文を写す)
6/30は「田穂の虫送り」(西予市城川町)
「こんどの日曜は「虫送り」ですね」と声を掛けたら
「そうじゃ、実盛さまじゃ。実盛さまじゃ。」と古老が
その口調には「お迎えする」って響きを感じた・・
(実盛の非業の最期に涙し、その無念を想う心)が、その顔に、その声色に顕れているように見えた
いまに伝承される平家物語を感じることができるかも
30日は田穂へ行こう
平家物語 · 巻第七. 八実盛最期. (現代語訳)
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斉藤別当実盛
越前国、南井郷(なおいごう)の河合則盛の子(幼名:助房)として、生まれる。
13歳の時、長井庄庄司 斉藤実直の養子として、長井庄に居住、名を実盛とする。
祖父の実遠以来、源氏との主従関係を結ぶ。武蔵武士として、数々の戦いで功を挙げた。
●1155年(久寿2年)大蔵館の変・・・鎌倉に住む源氏の棟領義朝と、大蔵館に居住する義賢(義朝の弟)は、武蔵国をめぐって対立。義賢は義朝の息子義平に討ち取られるが、遺児駒王丸を実盛公がかくまい、後に信州の豪族に養育を依頼する。
●1156年(保元元年)保元の乱・・・天皇と上皇の対立に、源氏・平氏・藤原氏等が同族入りみだれての戦。
実盛公は熊谷直実、畠山重能(しげよし)ら坂東武士と、源義朝に従い出陣。悪七別当を討ち、ずば抜けた手柄をたてる。
●1159年(平治元年)平治の乱・・・実盛公はじめ、坂東武士17騎でめざましい手柄をたてたが、平清盛の策略に破れ、長井庄に帰る。
×源氏 VS ○平氏
これらの戦いによって長井庄は平清盛の二男、宗盛の領地となる。長井庄における、これまでの功績を認められた実盛公は、平宗盛の家人となり、別当として長井庄の管理を引き続き任じられる。
その後の実盛公は、農民の住み良い土地を作る為、庄内の開拓、治水、土地改良に努め、農作物の出来具合の面倒を見る事などから、農民から大きな信頼を得るようになる。
厚い信仰心を持つ実盛公は、庄内の平和と戦死した武士の供養、領内の繁栄を願って1179年、長井庄の総鎮守として聖天宮を建立。
●1179年(治承3年)冨士川の戦い
1180年、源頼朝が挙兵し、再び源平による戦乱の時代となる。実盛公は平宗盛の恩に報いるため、平氏として戦うことを決意。敵となった源氏方の、かつて命を助けた木曽冠者義仲(駒王丸)と戦うことになる。
http://www.ksky.ne.jp/~shouden/sane/sa-main.html より
6/30 実盛送り 西予市城川町 |