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2015/03/20

四国へんろ 【第四十一番 稲荷山龍光寺】

2015.03.13
古くから「お稲荷さん」と親しまれている稲荷山龍光寺(宇和島市三間町戸雁)を、お詣りしました。6、7歳のころ祖母と参拝して以来…60年振りになります😅


※「四国へんろ風景」伊藤太一 (読売新聞社刊)p94 を写した地図です。


▪️標柱


▪️鳥居

▪️参道


▪️参道の先は五十余の石段。正面に【赤い鳥居】が見えます。


▪️石段を登ると、右に「大師堂」、左に「本堂」があります。

▪️大師堂

▪️本堂




▪️赤い鳥居

▪️さらに石段があり、上ると【稲荷神社】です。

▪️神殿



▪️稲荷神社から龍光寺本堂


▪️第四十二番仏木寺への案内(あるき遍路道


▪️▪️神仏同居する霊地
古くから「お稲荷さん」と親しまれている龍光寺は、四国霊場の総鎮守に定められた神仏同居の霊地です。

==参考==
「民家の間から続く長い石段の先に、赤い鳥居がひときわ目を引く龍光寺。稲荷神社と共に在る第41番札所です。小高い山頂からは、穀倉地帯である三間平野を見渡せます。 古くから「お稲荷さん」と呼ばれ広く親しまれているこの寺の由来は、弘法大師が 巡錫じゅんしゃくした際の逸話に伝えられてます。

大同二年(807年)弘法大師がこの地に巡錫した際、白髪の翁が現れて「吾この地に往して守り庶民を利益せん」と告げました。弘法大師は日頃信仰していた稲荷明神の化身と感じ、その尊像を刻み堂塔を建て丁重に安置、稲荷山龍光寺として四国霊場の総鎮守とされたのです。」










2015/03/05

ジンチョウゲの”根っこ”

沈丁花

今年もツボミ(莟)のころ、咲き始めのころと何枚も写真を撮ってきていますが、それはご近所のAさん宅の玄関の沈丁花

10日も前のことだったかAさんの奥さんと出会った
「あそこにあったんはイケンなってしいもたけど、これは挿ししたんよ。
あ、枝とってあげるけん … 今時分でも大丈夫よ」
二枝を手折っていただいた。
ひとつにはツボミが着いていて (あ ツボミが)と思わず声を出しそうになった時
「あれ ツボミのんを折っちゃた」「挿してあげとって」と笑顔で(^^)

(もちろんです)
無知なだけに、その分、不安だけど
ピートモスも何もないけど
小さな鍬で庭土を細かく起こして挿し木したジンチョウゲ

2/28
ツボミ(莟)が開き始めていました

でも
健気さへの感傷はあっても
(根が着いた。活着した。)との実感はありませんでした。

きょう2015/03/05 

これも感傷と言えば感傷ですが
ここがワタシの大地、ジオ。いま ここを
ジンチョウゲの根っこの声が届いてきます

根っこの営み。。。














2015/02/28

【川の記憶】 「安長渡し」「大間渡し」(重信川渡し)

公園建設前の市坪西町概略図 〈耕地整理図写し〉

JR予讃線 市坪駅(愛称”野・ボール駅)から松山中央公園へ入ったところに建てられています。

白抜き「安長渡し」「大間渡し」は筆者
       ⬅️河口方                              北⬆️                           上流方➡️
                                                    南⬇️

現在公園建物との位置関係を対照するために学校橋(赤字)をプロット


▪️安長渡し▪️▪️

概略図には「学校橋」としか刻まれていませんが、「学校橋跡」標柱に「安長渡し」の記述がありました。

「江戸時代から明治時代にかけて郡中方面から松山方面に行く人の多くが行き来していた【安長渡し】に代えて…」


▪️大間渡し▪️▪️

概略図に刻まれています。
二年前に中央公園側の土手に、その跡を探したことがありますが発見出来ませんでした。
その時、南岸(松前町。さらに南西方は郡中になります。)に標柱のあることを教えてもらったのですが…
きょう訪ねてみました(^^;;

「安長渡し」の記述は、前記の学校橋跡標柱の他に見ることは出来ていませんが
「大間渡し」については次がありました。


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大間渡し

 昔、松山と南予を結ぶ道路は、重信川にさしかかると渡し船を利用せねばならなかった。数名の人が権利株を持ち、3人ほどの船頭を雇い運営していた。
 明治20(1887)年には、営業規則ができていた。
 重信川渡しは、塩屋渡し・北川原渡し・出合渡し・大間渡し・中川原渡しの5ヶ所であった。
 重信川渡し跡には、松前町教育委員会により渡し跡を示す木杭が立てられている。


河川伝統技術データベース:分類別リスト【舟運】


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「重信川渡し」
5ヶ所を上流方から並べると
中川原渡し」「大間渡し」「出合渡し」「北川原渡し」「塩屋渡し」

                                  中川原橋(南詰)から堤に降りて河口方を見る
                         坊ちゃんスタジアムが見えます。

堤に降りて、すぐ右手に標柱が建てられていました。
▪️重信川渡し跡(中川原渡し)▪️▪️
                        画像の奥手が上流方、中川原橋が見えます。

                                               標柱から対岸を望む。


初期の堤に県道が走っています。

県道335
松山川内自転車道線


河口方へ
JR予讃線重信川橋梁を越えて先に進んだところで
列車の響きに振り返ったらアンパンマン列車が松山方面に入って来ました。
(嵩上げされた上段の堤から撮影)
(左下に下段の堤をジョギングされて方の姿が写っています)

対岸の景色
チガヤの向こうに坊ちゃんスタジアム
スタジアムの手前(川側)に空港と松山ICを結ぶ高規格道路が建設中
あっと言う間に景色は変化、移ろいます…

上段の堤から下段の堤への景を見ると、
二段堤で嵩上げされているのがよく判ります



(上の堤よりの景)
対岸(北岸。市坪西町。)中央に写っているのが競輪場、右手に瓦屋根の県武道館が見えます。
手前南岸)
画像の中央に標柱があります。

「重信川渡し跡」の表記しかされていませんが、
「大間渡し」の跡に違いありません。

▪️重信川渡し跡【大間渡し】▪️▪️

【中川原渡し】から二つ目の標柱から河口方の景色(
上の堤から)

橋が見えます。
「であい自転車道橋」です。
対岸の市坪西町の西端に跨り、石手川南岸の自転車道と繋がります。
※石手川、傍示川が重信川に出合う(合流)する地点

「であい自転車道橋」の更に加工方にR56の出合大橋
その先に旧56号線の出合橋、その先に河口大橋、そして伊予灘に流れ込みます。

前記の通り、河口方
中川原渡し」「大間渡し」「出合渡し」「北川原渡し」「塩屋渡し」

「出合渡し」は旧の出合橋辺り、「北川原渡し」「塩屋渡し」は、そのまた河口方にあるとしてよいと思います。





===
往還は川の流れに沿って生まれて
対岸、向こう側にわたるとき橋が、渡し(船)の道が生まれたんだと言ってよいとおもいます。

新しい道が生まれたら、景は一変します…

しかし、道(川)が変ぼうしたとしても
道(川)が刻んできた記憶を風化させてはいけない
いや、むしろ変ぼうのスピードが速くなる今こそ、記憶を記録し、それに想起・実践する
ことが大切なこと

記憶の川の流れを止めてはいけない

=========⬇️メモ

突飛な思いつきと言われれば、確かに夢の夢のような話だけれど

「学校橋跡」に記されいる「安長渡し」に、それ以上の資料、記録には辿りつけていないけど
ハッキリと見える
大間渡し」で対岸に渡り、「安長渡し」で石手川を渡る【みち】がハッキリと見える

学校橋を示す破線(概略図)の北岸地点に立つと、ほぼ一直線の先に日招八幡神社を見通すことができる。
市坪の鎮守、素鵞神社は日招八幡神社の末社で
もとは(現在 県武道館から傍示川を渡り中央公園へ入ったところあたりに所在していた)と言うこと。(地元自治会の方より伝聞)

「神幸(みゆき)」の道が見える…



ジオの道…
(未定稿)













2015/02/26

安長堤のこと① (愛蓮山 玉善寺)

「四国災害アーカイブス」に、次のように記載されています。

元和6年(1620)6月、洪水により、市の坪が全部浸水した。石手川のつけかえ直後は市の坪に被害が集中した。市の坪の郷士安長九郎左衛門は財産を投げ出し、自力で堤防を修築した。さらに、延宝6年(1678)には、藩の援助を受け、堤防の復旧工事を行った。この時の堤防が「安長堤」と言われるものである。
http://www.shikoku-saigai.com/archives/17051

※「市の坪」は「一ノ津」が転じたもので、市坪となりました。現在も私年代くらいまでは「いちのつぼ」と呼ぶことが多いようです。(わたし現在67歳)

安長九郎左衛門の墓所が、玉善寺(松山市市坪南)に祀られているとあり、お訪うて見ました。
写真の右手(東)に見えるネットは松山市立椿中学校。
周囲は住宅街になっています。

愛蓮山 玉善寺
真言宗 
本尊:如意輪観世






縁起を読めば、末寺ではありますが松山藩主との関係など旧い歴史を有していることが判ります。

山門の脇に延命地蔵堂


境内、本堂の横に小さな祠(建て替えられていますが)があります。
三社大権現

吉野大権現ー本地佛ー観音菩薩
熊野大権現ー本地佛ー大日如来
愛宕大権現ー本地佛ー地蔵菩薩


明治初年 松山▪️▪️設置の際 
松山城山麓に(掌)祠ありしを 城下在住 本田善左衛門が願受(し)当寺に勧請した
以前は松山の古老が椿祭(の)帰路に よく参詣したよしである

▪️は判読できず
()内は(?)
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今日(2015/02/26)は旧正月八日、椿祭の例祭日であるが…
この足で椿祭へ詣るのは止すことにしました^^

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本堂の北側が墓地になっています

墓前に感謝を捧げました

(写真は省略)










2015/02/16

渭南海岸にて③ 叶崎(かなえさき)ウバメガシ林 に咲く”唯の花”

▪️ウバメガシ▪️

ウバメガシは幹がきわめて硬く炭にすると,他の木に比べ高い熱を発することが古くから知られており,古くから備長炭の材料として用いられてきました.紀伊半島と四国西南地域にのみ自生していますが,海に近い弦場の森とよばれるウバメガシの群生地は魚付林としてして栄養分を海に注ぎながら,森の主人のようなウバメガシの巨木がその森の奥深くに残されています.


(牧野富太郎の道を歩く http://www.makino-navi.com/otsuki_area_list.php  より)

太字は引用者)】


===

2月11日(2015)

叶崎灯台への入り口は、ウバメガシがアーチのようです。



▪️ヒトツバ▪️
そのアーチをくぐり灯台までの遊歩道はウバメガシ林の中を縫う途、道沿いにヒトツバが群生しています。

ヒトツバは暖地の海岸に多い常緑のシダ。日本では関東地方以西の本州、四国、九州、南西諸島に、世界では東アジアの暖温帯から亜熱帯に広く分布する。海岸から沿岸域の急傾斜地や岩場に群生し、時として平地にも生育する。ウバメガシ林の林床に密生していることも多い。葉は厚くて丈夫であり、長い地下茎から所々に形成され、葉柄を含めて長さ40cm程度にまでなる。裏面に胞子嚢を密生する胞子葉と通常の葉を形成する。和名はシダ植物の多くが羽状複葉になる中で、複葉にならないことに由来するが、時として葉の先端がいくつかに分かれる事もある。…
(太字は引用者)】


▪️ノジギク(野路菊)▪️
盛りの花期は過ぎていますが、ノジギクが葉のミドリを輝かせています

ウバメガシ林が海からの冬風から保護して
常緑の葉を通して冬の陽を優しく注がせているからでしょうね(^^)




ノジギクは牧野富太郎博士により1884年に見出され、1890年にその名がつけられました。
見つけた場所が高知県の吾川村川口という山の中だったので、その名も”野路菊”となりましたが、本来は海岸沿いに多い植物です。兵庫県を東限とした本州の瀬戸内側、四国では香川県、愛媛県から高知県足摺岬をまわり、南国市前浜まで、また九州の東海岸に分布します。ただ、高知県においては南国市の東側を流れる物部川より東には野生では見られません。

▪️ゴンズイ▪️
臭木(クジュナと呼んで若葉を食します)の実に似ていますが…



臭木は秋に綺麗な瑠璃色の実を着ける。
ググってみたら、ゴンズイも秋に実るとある。そして「黒臭木」の名もあると!

これも、ウバメガシ林に優しく守られて越冬したゴンズイの実ですね(^^)

▪️ツワブキ(石蕗)▪️


ツワブキは石蕗

”ツワ” その名の ”艶” を 輝かせています
路傍に”意志”の花を咲かせます



ウバメガシ林は魚付き林
海の魚を護ります
そして足元の草花も育みます

自然の共生力に共感し、そして共生していきたいです(^^)

共感!
共生!