宇和島市内の町名が可なり大きく変更されたのは、高校を卒業したS41だったと記憶してます。
宇和島の家のある薬研堀も佐伯町2丁目に改称されました。
行政上の効率化などの要因があったのでしょうが、新町名に、(なんで?)と頭を捻ったものがあったような、そんな記憶があります。そして、
なにか大切なモノが薄れてしまっていくような・・そんな思いも。
【旧町名・薬研堀(やげんぼり)】
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道路向かいは天赦園 |
標柱には、旧町の範囲、名の由来が刻まれています。
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旧・薬研堀の範囲 |
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標柱から西方を。 |
由来には次のように記されています。
薬研堀(やげんぼり)
旧藩時代、浜御殿の南に位置するこの地には堀や馬場があった。
その堀や馬場が薬研に似ていたので この名がついたといわれている。
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標柱から西方、小さく見える青信号はR56・文教町。
右手(北)に城南中学校。南、左手に明倫小学校。
まっすぐ行くと、宇和島南中等教育学校。
北方向にはお城山が望めます。
【旧町名・富澤町(とみざわちょう)】
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神田川の北河岸 |
佐伯町1丁目から東へ。古い家並に瀟洒な建て物がならぶ住宅地。
神田川が見えてくるところに標柱が建てられています。
「勧進橋」から少し下流方になります。
夫婦でしょうか、恋人同士でしょうか、ペアの鴨が游んでいました。
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旧・富澤町の範囲 |
町名の由来には次のように記されています。
富澤町(とみざわちょう)
旧藩時代、御典医冨澤氏が居住していたので この名がついたといわれている。
かつてシーボルトの娘イネが、村田蔵六の指導を受けるため居住した町ともいわれている。
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かんばらどおり(鎌原通り)は、この辺じゃなかったかな・・
大橋通り、
大石町は・・と歩きまわりましたが、きょう(9/19)は標柱に出合えませんでした。
現在の京町から北方、お城山を。
「なかのちょうの教会」も見えます。
なかのちょう、広小路・・。
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《なかのちょう の教会》 |
正式名称は、「日本キリスト教団 宇和島
中町教会」。
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なかのちょう の教会》と書いたのは、そう呼び親しんでいたことが印象されているからです。
山間の村から小3のときに引っ越してきて、母の勧めで日曜学級に通うようになったとき、「なかのちょうの教会に行こうか」と言われたのが名を知った初めでした。
きょうまで、表記は「中ノ町」だと思いこんでいました(笑)が、標柱にはどう刻まれているのか、また歩きます。
すっかり様子も変った街並みを歩きながら、旧町名を口ずさむと、
うすれた記憶が彩色されてくるような、そんな感じがするんです。
さぁ、旧町名・裡町(うらまち)の標柱を探します。
と言うか、標柱に見つけてもらえるようチャリを走らせます(^^)/