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2011/10/10

【逍遥 宇和島・チャリで行く】旧町名標柱を巡る(3)〈点描/堀端通・木屋旅館)

私にとって、堀端通は宇和島の中心であった。
そう印象されている。

小3に上がる春に、山間の村から引っ越した先が市街の南であったせいもあって、商店街へ行くときも、六兵衛坂を越えて「赤い橋」のエンマ様へ行くときも、必ず堀端通を歩いたからかも知れない。
もっと旧い記憶には、山間の村から祖母に連れられて行った理容所も堀端通にあり~もちろん当時、町名は認識していなかったが、座らされた硬い皮製の椅子の感触が残っている。
現在、同所に理容所はないが9月の帰省の際に、代が変ってから場所を移されて営業されていることを聞いて、なぜかホッとした。
宇和島に住むようになったとき、母の勧めで通った日曜学校の「なかのちょう の教会」は堀端通の隣、中町にあった。
初めて習い事に通ったのは、べにばら画廊の絵画教室で現在も堀端通にある。

高校をでるまで、長閑な時間、日を宇和島ですごした。
高校を出て長い時間が過ぎた。
きょう宇和島を歩けば、様子は大きく変化している。
町名も変っている。
堀端通は堀端町に、中町の名はもう無くなっている。

でも、「なかのちょうの教会」の角に休めば、そこは中町であり、安藤コーヒーさんでお茶をいただけば、そこは堀端通だ。それが私の宇和島なのだ。


木屋旅館と大きな柳

この一月に父が逝って、その仕舞に納骨までの2ヶ月を宇和島で過ごしたとき、堀端の木屋旅館が閉められていることを知った。
その旅館のことは、旧い歴史があり著名な方々に愛された宿であると云うことくらいのことしか知らないのだが、宇和島の灯がひとつ消えた、そんな感慨があった。

それは、私の心には宇和島の中心である堀端通の象徴のひとつであろう木屋の店じまいに対する感傷であろうか・・いや、心象宇和島の朧さにたいする自責の思いと書いたほうが正確かもしれない・・

さておき、
わたしの木屋の印象は、玄関先にあった大きな柳の木であると言ってよい。
木屋についての知識は前述のほどのもので、玄関をくぐったこともないが、宿のまえはよく歩いた。
柳の前を歩いたし、その下で涼をとったことも、また立ちつくしたことも。

その柳も今はない。
枯れ死したのか、伐採されたのか、そしてそれが何時頃のことなのかも、なんの憶えもない。

この八月に新盆で帰宇したとき、市の予算で木屋旅館が再興されることを知った。
前を歩くと、外装工事は完了して内装工事が進められていた。
七月の完工予定が、東日本大震災の影響で九月初旬に遅延しているとのことだった。

秋の彼岸を宇和島で過ごそうと考えたひとつには、完工された木屋さんの前を歩き、出来れば玄関をくぐってみたいと思ったこともある。

9月23日、工事は終わっている様子でしたが、営業が開始されている息遣いも感じられませんでした。



案内標識が新設されていました。

■木屋旅館


明治44年創業。おくゆかしい店構えに
城下町の心温まるもてなしの宿として、
後藤新平、犬飼 毅、司馬遼太郎など、
名だたる著名人からも愛された旅館です。




当然と云うか、柳の姿はありません。
脳裏には大きな柳があるのですが。

■空の記憶

すこし歩きつかれたので、お隣の安藤さんで珈琲をいただきました。
装いが一新されています。
そのお隣の、絵画教室に通った紅バラ画廊さんも。
脳裏には、往時の姿がクッキリとあるんですが。


安藤コーヒーさんと木屋旅館の間から空が。


あの日と、
おなじ色・・

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以下、父の書棚にあった

『ふるさとの思い出 写真集 明治 大正 昭和 宇和島』(河野一水、松本麟一 編著)国書刊行会 発行

より、お借りしました。



■堀端通り


「大正初年のころの木屋」

城堀を埋めて生まれた町である。
柳の若葉に風が流れて、幌(ほろ)をつけたゴム輪の人力車が人待ち顔である。
明治四四年に開業した古い宿屋の木屋(きや)は今も続いて営業している。
ガス燈がともるころ、旅の艶歌師がこの町角に立って、バイオリンを奏(かな)で
「不如帰(ほととぎす)」「カチューシャ」の歌を歌って歌本を売っていた。
大正初年のころのことである。

(引用者註:本書は昭和58年7月20日発行)





目を瞑ると、柳に風がながれ緑がそよぐ光景が浮かびます

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