【国境・くにざかい】
講演の中に、「国境・くにざかい」の表現はなかったけれど、keyになる言葉と云うか、気になると云うか、拘りたい。
【愛媛県における鹿踊り分布図】
分布図を見れば、分布は伊達宇和島藩の版図にほぼ一致するが、大洲藩領に持ち込まれているのが藩境の線に沿うように認められる。
藩境は現在の国境、いやそれ以上の分断線だったと言ってよいのでは。
藩の中心からすれば、辺境の地であろうが、分断線を接して影響しあうと云う意味で、文化交流の最前線、ひとつの中心と捉えて良いのでは。と、[1]に記した。
レジュメに、「宝暦年間 仙台藩 城・要害・所 所在分布図」が紹介されている。
恥ずかしながら、きょう見直すまで、仙台藩領が現在の岩手県南部にまで及んでいたことを知らなかった。
レジュメ余白のメモを見ると
東北に広く分布している鹿踊りが、仙台藩と北に接する南部藩との藩境をもって大きく二分されていることを書きつけている。
南部藩 〈幕系〉 花巻、遠野、釜石の地名も書き込んでいる
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仙台藩 〈太鼓系.〉 江刺、水沢
「ササラ文化」
★★本筋から脱線しますが
「こちら(遠野、花巻)のシシ踊りは、仙台のシカ踊りとは違うんです!」
きつい口吻に感じられました。
と言ってもmixi友人とのコメントの遣り取りですから、声色を耳にしたのでも、拝顔したわけじゃありません。
花巻の「しし踊り」が銀座で披露されるとの(楽しそうな)書き込みに、「宇和島には伊達の殿様の入部と共に伝えられたという鹿踊りがありますよ」とレスしたのに対する返レスが上記の言葉でした。
ま、この事がその後の付き合いにどうこうあったわけでなく、これは失礼なことなんですが鹿踊りを「しし・」と発声されるのは訛りぐらいの認識でした。
でも、講演でこの地図を示された時に、憎しみとまでは言えなくても、それに近い叫びのようなものがあったんじゃないかなと思い出してしまったのです。
県政にも北部南部の対立が大きいとか、そんな話があったような、あるような・・
その境が、旧藩境なのかな・・
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端折り過ぎですが、文化の共有圏、それが共生の圏域。と、考えています。(思いたいのです。)
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と言って、周囲から全く隔絶されることはないので境を接しての「せめぎ合い」は不断に続く。
影響を与え、影響を受ける。これが文化を生む現場。辺境はその中心。
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【幕系・太鼓系】
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幕系 |
【幕系】 五つの彩色(赤・青・白・黒・黄) → 五行(宇宙)を顕す
〈南予に見られる幕系〉
松野町松丸の鹿踊りが類似しているとの事
城川町窪野の「八つ鹿」は、幕系
【太鼓系(ササラ文化)】では、菅(すが・白・麻)が五行をあらわす。
宇和島・裡町1丁目の「八つ鹿」
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南予の鹿踊りには、「幕系」「太鼓系」の二つの系統があるようだ。
共存と云うよりは併存・・
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10日に来演してもらった
鴬沢の「八つ鹿踊り」(宮城県栗原市)
現・宮城の北西に位置、岩手県境に近いが北部に接するのは旧仙台藩領、水沢、江刺があり
「太鼓系(ササラ文化)」に位置するが
異様なカシラは、「牛鬼」を連想させた。
いま、鮮やかな装束を見ていたら「獅子舞」との類似が感じられる。
【しか踊り・しし踊り】
10日の講習
東北の(南予にはない)鹿踊りの特徴として『死者供養』の色合いが濃い
庭踊り。墓踊り。
その死者供養はヒトに限らず、「動物一般の供養」であった。
江刺、釜石の鉄砲猟師にも触れられた。
死者供養の側面が、カシラの勇壮さ、猛々しさとなった。
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鴬沢「八つ鹿」のカシラ |
死者供養の側面が南予にないのは
宇和島入部とともに持ち込まれた「鹿踊り」が、総鎮守の一宮様に奉納され、練りモノとして定着したため。
(春日大社の鹿のような存在だろうか)
為に、勇壮さはなく、勇壮さ、悪霊(?)祓いは、「牛鬼」「唐ジジ」の分担することになった。
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鹿踊は獅子舞の一種で、一人立ちで鹿頭をかぶり、胸に鞨鼓を抱え、幌幕で半身を覆って踊るもので、南予地方周辺の祭礼に登場する民俗芸能である。一人立ちの鹿踊(シシ舞)は、東北地方をはじめとする東日本に広く分布しているが、西日本では、福井県小浜地方と愛媛県南予地方周辺のみ見られる。南予地方の鹿踊は、江戸時代初期に、宇和島藩初代藩主伊達秀宗が宇和島に入部した折に、仙台から伝えられたと言われているもので、源流は東北地方にあり、仙台周辺の鹿踊と共通する点が多い。 鹿踊は、南予地方でも旧宇和島、吉田藩領内とそれに隣接する地域に分布しており、牛鬼と同様に、宇和島地方からその周辺に伝播したもので、約百箇所で踊られている。東限は大洲市、長浜町、肱川町であり、南限は高知県幡多郡になる。上浮穴郡に鹿踊は見られず、牛鬼よりは分布の範囲は狭いのが特徴である。 名称は「シカオドリ」、「シシオドリ」、「カノコ」等であるが、踊る人数によって「○ツ鹿」と呼ばれることが多い。 踊る人数は地域によって異なり、宇和島市や城川町窪野等では八人で踊る「八ツ鹿」、吉田町等では「七ツ鹿」、城川町下相等では「六ツ鹿」であるが、ほとんどは五人で踊る「五ツ鹿」である。八幡浜では舌田、川上、真穴に五ツ鹿踊があるが、昭和二〇年代までは五反田にも五ツ鹿踊があった。 南予地方の鹿踊は、江戸時代に仙台から宇和島に伝えられた当時は、八人で踊る「八ツ鹿」であったが、宇和島から各地に広がるうちに鹿の数が減り、現在は五人で踊る「五ツ鹿」が一般的となっているという俗説がある。 ところが、宇和島城下で踊られた鹿踊、つまり宇和島市裏町一丁目の鹿踊は、現在では「八ツ鹿」であるが、江戸時代末期成立の絵巻を見ると、五ツ鹿であり、明治時代以前には五ツ鹿であった。実際には大正時代に宇和島に摂政宮(後の昭和天皇)が来られた際に、台覧に供するために八ツ鹿に変容させているのである。つまり、南予地方の鹿踊は、仙台から伝えられた当時が何頭であったかは不明だが、少なくとも江戸時代後期には五ツ鹿が主流であり、これが宇和島から八幡浜地方をはじめ南予各地に伝播したと考えられる。 八ツ鹿踊が本流で、各地に伝えられるうちに五ツ鹿踊になったというのは、「創られた伝統」であり、実は史実とは異なるのである。
2000年05月25日 南海日日新聞掲載
(出典)
五ツ鹿踊 - 東北地方の博物館【地震関連】~ブログ「愛媛の伝承文化」より当面改題~:
'via Blog this'
※愛媛県歴博 専門学芸員 大本敬久 氏のブログから転載
※太字強調は引用者
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講演していただいた大本さんのブログから借用させていただきました。
かなり、ショッキングな締めになっております(笑)
わたしの「八つ鹿」への思い入れは、「裡町」へのそれと表裏一体なんです。
この一月に逝った父の出生地が裡町にあることを、仕舞のためにとった書類のなかに確認しました。
確認と書いたのは、一度だけ裡町の思い出を語ったことがあります。
おそらく通学路でのことだと思いますが、「辰野川沿いの傘屋さんの「渋」の匂いが好きだった。」
今となっては、私に語りかけたのか、それとも独り言だったのか・・判然とすることはできませんが
聴いてみたかったなぁ って思うんです。
「鹿踊りの思い出でもあったら聞きたいな」って。
これを、「父祖の地への想い」なんて書くと汗顔至極ですが、やっぱり、そんな思いがあるんです。
どうやら、南予には「旗系」「太鼓系」の鹿踊りが併存しているようです。
細部には、さまざまな影響の受け合いがあるのでしょう。
講師も指摘されましたが、仙台伊達藩の父祖の地は山形米沢。
和霊神社に祀られる山家清兵衛も山形の人。
伊達入部の総人数2000人。
仙台の鹿踊りが宇和島へ南予へ持ち込まれたのでないことは容易に推察できます。
入部した人それぞれの父祖の地への想い郷愁が、それぞれ様々な装いをもって発生していったのでは・・、そう云う形態のものも少なからずあるんじゃないかな・・・ こう思いたいだけなのかもしれませんが。
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