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2012/11/22

「黄葉樹の白鷺」(白いヒト)

先日初めて頂いた雄群(おぐり)餅。
また食べたくなって小栗(おぐり)町の菊月さんへ。

その帰り道、小野川の南岸を歩いていたら黄葉した樹の枝に数羽のシラサギが羽を休めてました。



白鷺にはダイサギ、チュウサギ、コサギ。
大中小は体長からの区分だろうけど判別し難いです。
それに、ダイサギ、チュウサギ、コサギが群れることもないみたいだから比較のしようもなく尚更です。

小野川の北を流れる石手川には越冬鳥の集うスポットがあり、この二つの川が合流して流れ込む重信川河口はバードウォッチングでも名高いようです。

白鷺はこれらの川に集う鳥のなかでも数多く観ることのできる鳥です。

肉眼で体格の比較は難しいですが、嘴の色、眼の縁取りでダイサギ、チュウサギ、コサギを判断できます。

この時季(冬羽)のコサギの嘴は黒色で、それが黄色の二種と区別がつきます。
同じ黄色のダイサギ、チュウサギですが、チュウサギの嘴の先は黒色が残っていて、それで判断がつくと言うんですが (参考:白鷺(シラサギ)の見分け方 http://qpon.quu.cc/yacho/sirasagi/


ズームしたけど(望遠は不携帯でした)黄葉に埋もれ溶け込んでいて判りません。




それにしても、体毛の白がクッキリ見えるのが不思議なくらいです・

白色・・

主張するなく主張している そんな感じがする白



周囲を否定することなく自分の存在を示す・・



叶うものなら、白色のごとき人間でありたいと思う

misasi


※為念、肌の色ではありません。農人misasiは褐色の肌に憧れています^^

2012/11/20

時間の密度・

一時間、十五分・・、絶対時間は一時間と十五分で、一秒一分の集合の時間だけど


JAグリーン創業祭(16日17日)




JAグリーンで、鉄砲ユリの球根の”つかみ取り・1回100円”あると言う噂を耳にして楽しみにしてた

実は、チューリップの球根だったが(笑)




しかし、一回100円です^^

取り出し口の径が微妙で、指を広げ過ぎりると落ちこぼれが心配・・

結果、7個を取り出して100円/7個は・・やってたら2個オマケを頂いて、一個10円ちょっと!
チョットじゃない興奮(^O^)/




手作りパンのみせ ノーブルさん

お昼は11時半過ぎに早めのランチを頂いてから つかみ取りに挑戦したんですが、成果に興奮して空腹感が^^

ノーブルさんの外テラスで、クリームたっぷりのケーキ


ホット・コーヒー飲み放題(^O^)/


11時半から13時15分まで1時間と45分・・

絶対時間は1時間と45分だけど

密度の濃い1時間と45分でした^^

時間の密度は心の充足度が決めるもの


グリーンから魚成へ
そして魚成から松山へ

グリーンの葉牡丹を今日、鉢に植えました



密度の濃い時間を作るため鍬振り続けたい・


2012/11/18

≪向日葵色≫もっと咲かせたい

深秋、初冬に咲かせたい…
願い祈った、遅蒔きの向日葵
発芽して
幹を太らせて丈を伸ばした
なんど思ったろう
悔やんだこともあった
播種が遅すぎた…
向日葵の自生力を信じた

莟が着いた

降霜、怖さも知らないのに不安に戦くことも再々だった
向日葵の自生力を信じきるしかない
そう自分に言い聞かせた
情けなくて辛かったけど
そうするしかないと思った
☆一昨日の午後、
遅蒔きの向日葵の莟に蝶が留まってた
また蒼く硬い莟に
(向日葵の匂いが濃くなったのかな)
そう思った自分…
(相も変わらずの能天気)自嘲もあった
☆昨日は雨
昔話、絵本を読んでだりして過ごした
畑が気にならなかったのが不思議なくらい
正直に書けば
「深秋初冬の向日葵」にこだわった、その切っ掛けの日がくっきりと想い浮かべていた
ちょうど一年前、
鉛色の空を圧するように向日葵が咲いていた日に立っていた
☆今日
蝶が留まっていた莟が
向日葵色
向日葵色だ

咲いた
拘りが咲いた

もっと咲け

咲かせたい
===========

2012/11/15

雄群神社(松山市小栗町)境内の「金砂神社」写真&「和霊信仰」 参考資料 

雄群神社(松山市小栗町)境内で撮影('12.11.14)

金砂神社(かなひさじんじゃ) ※画像左




■金砂神社(かねひさじんじゃ)

御祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)と天神様(てんじんさま)と和霊様(われいさま)であります。
・(略)・
和霊様は、伊達政宗の長男である秀宗に忠誠を尽くした山家公頼(やんべきんより)の霊を祀っています。




「えひめの記憶」 - [『ふるさと愛媛学』調査報告書]


http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=1&P_SNO=5&P_FLG1=4&P_FLG2=2&P_FLG3=2&P_FLG4=1


(1)和霊信仰の広がり①

  ア 和霊信仰

  (ア)信仰の起こり

 宇和島市にある和霊神社(写真3-2-13参照)は非業の死をとげた山家清兵衛公頼(やんべせいべえきみより)(*3)を祭っている。
 「清兵衛が和霊大明神になる過程は、我が国に古くからあった御霊(ごりょう)信仰のひとつの典型である。御霊信仰とは、恨みを呑んで死んでいった者の怨霊(おんりょう)がこの世に崇るという信仰で、・……代表的御霊には、藤原氏の陰謀の犠牲になった菅原道真(*4)や、反乱を起こして敗死した平将門などがある。」 (①)
 「またタタリをしずめるためにその怨霊・御霊を祭祀(さいし)し、祭礼をくりかえす結果、怨霊・御霊は荒ぶる霊からやがて平和な恵みをもたらす守護神すなわちニギミタマ(和霊・和魂)に変化し、かえって霊験あらたかな神となる。この御霊から和霊への変質も、御霊信仰のいま一つの特色である。」(⑭)
 この御霊から和霊への変質を経て、祭神山家清兵衛もまた霊験あらたかな神、和霊大明神として広く人々に信仰されるようになったと考えられる。

  (イ)信仰圏

 和霊信仰の広がりは、四国、九州、中国地方一円に及び、各地に和霊神社(独立社、境内社)が建てられたり、和霊神社の祭神が合祀されたりした(図表3-2-2参照)。このように信仰圏が拡大したことについては、①四国巡礼、②宇和島との交易・交通(特に海上交通)の発達、③各地を巡業した人形芝居などが重要な役割を果たしたと思われる。なお、②と信仰圏との関
係は図表3-2-2と図表3-2-3とを比較することによっても推測することができる。
 上原甚太郎さん(後出)は「昔、宇和島にはたくさんの商い船がやって来ました。その乗組員たちが和霊神社の霊験あらたかなことを聞いて帰ります。四国巡礼の途中和霊神社に立ち寄る人もいました。芝居を見て人々は山家清兵衛の非業の死に心を打たれます。」と話している。 また人々の間では、霊験あらたかなことに加えて神社が立派であったことも話題になったであろう。 半井悟菴(なからいごあん)は『愛媛面影』の中で「不思議の霊験あるに依(よ)りて諸人の信仰他に異なり、殿社の結構も亦(また)比類なし。」と記し、和霊神社の全景(図表3-2-4参照)まで載せて紹介している。(⑯)

  (ウ)カヤマチ(ワレイマチ)

 和霊信仰圏には、和霊祭の夜(旧暦6月23日が多い)蚊帳をつらずに寝るという習俗が各地にあった(図表3-2-2参照)。これをカヤマチという。(夜明かしをするカヤマチ、二十三夜待ち〔陰暦23日の夜、月待ちをすれば願い事がかなうという信仰〕の習俗や地蔵信仰と習合したカヤマチもある。)例えば、徳島県名西郡石井町浦庄では「和霊さんの祭日の旧暦6月23日の夜は、ワレイマチといって全戸、蚊帳を吊(つ)らずに就床した。」という。(⑭)松山市三津浜では、「和霊の祭日には、カヤマチといって夜通し友達の家で遊ぶ。そうすれば願いごとがかなう。」と信じられていた。(⑭)県内の民俗に詳しい森正史さんは
「私の在所、温泉郡重信町下林にも和霊神社(三奈良神社境内末社)があり、7月23日(旧6月23日)の晩には、必ず余興の奉納があり、かつ蚊帳待ちする民俗があった。もう24、5年前になるが、私もそれをした思い出がある。現在もしているけれども以前のように徹宵してやらなくなった。」と記している。(⑰)このカヤマチ(ワレイマチ)習俗は、祭神山家清兵衛が蚊帳の中で殺害されたという伝承から生まれたのであろう。住環境の変化などによって、最近蚊帳はほとんど家庭から姿を消した。平成7年7月30日付の『愛媛新聞』には「蚊帳 店頭から姿消す」という記事が載っていた。こうなると、和霊祭の晩の夜明かしはともかく、蚊帳をつらないという習俗がなくなるのは当然だと言わねばなるまい。


*3:山家清兵衛公頼は伊達政宗の家臣であり、宇和島藩主となった長子秀宗の家老として派遣され、藩の基礎づくりに尽力したが、反対派の恨みをかい、元和6年(1620年)凶刃に倒れた。
*4:道真は天神様、将門は江戸の神田明神として祭られている。

2012/11/13

☆misasi考(思)☆ なんてん(南天)の赤(朱)い実を見て思ったこと・


庭の南天の木に赤(朱)い実が着いてます。('12.11.13)



初夏に白い花が咲き、晩秋から初冬にかけて赤色の小球形の果実をつけるナンテン

南天の字が充てられてますが、なんで・

生家のトイレの周囲に白い花、赤い実の南天の姿があったのを覚えていますが、方角的には西側だった記憶・・

なんでナンテン、南天なんだろう・


☆ネットって良いですね^^

即ヒット> ズバリ

「南天研究所/南天豆知識」


☆この南天、中国では古来、「南天燭」「南天竹」などの名前で呼ばれており、日本名の「ナンテン」は中国での名称を簡略化したもの。
これが訛(なま)ってナルテン、ナッテン、ナピテンとも呼ばれるようになりました。

☆日本ではナンテンが「難転」~難を転じて福となす~に通じることから、縁起木として愛されてきました。

☆初節句や七五三など、お祝い事に南天の葉を添えて食べるお赤飯。
赤い色は厄除けの力があると信じられ、江戸後期から慶事に用いるようになりました。

☆昔の家のお手洗い(厠)は家の外にあるのが普通で、そのお手洗いの周りには必ずといっていいほど南天の木が植えられていました。
これは「南天手水(ちょうず)」と称して、お手洗いに水がないとき、南天の葉で手を清めるためです。
もう一つの理由は、お年寄りがお手洗いで転んだり、倒れたりすることが多かったため、「南天の木につかまる」(難を転ずる)ことが目的でした。つまり、「不浄よけ」と「生活の知恵」の両方が備わっていたのです。

☆南天のルーツを探ってみましょう。一説には南天のルーツを探ってみましょう。一説には平安初期の僧、弘法大師(空海)が804年、唐から南天を持ち帰ったという説があります。
弘法大師が南天でできた古い杖を石垣に突き刺したところ「弘法も杖?の誤り」か、各地に南天が根付いたという伝説が残っています。



乱暴に抜粋しましたが、南天が古くから人の生活の中に定着してることが解かります。
トイレの方角とは全く関係なし^^;
しかし南天の薬効が、かくも生活に活かされているとは


==閑話休題==



初夏に白い花が咲き、晩秋から初冬にかけて赤色の小球形の果実をつけるナンテン

【白が赤(朱)に】

花が咲いて結実するのは草花のDNAみたいなものでしょうし、その意味からは何の不思議もないのですが

人生の各年代(ライフ サイクル)が、青春・朱夏・白秋・玄冬 と捉えられており、それはそれなりに見聞しています

人生を四季・春夏秋冬に分け、それぞれを青→朱→白→玄(黒)の色でイメージしています。


   年代                            論語
  ① 青春    :16歳~30代前半      16歳 志学 学を志す
  ② 朱夏前半:30代前半~40代後半  30歳 立身 身を立てる(独立)
                 40歳 不惑  惑わず
         後半:40代後半~50代後半  50歳 知天命  天命を知る(天命をわきまえる)
  ③ 白秋    :50代後半~60代後半  60歳 従耳    耳に従う(人の言葉を素直に聞く)
  ④ 玄冬    :60代後半~          70歳 不超矩  矩を超えず(思うままにふるまっていて道を外れない)

63歳の人生を思えば汗顔至極でありますが、一方においては

60にして従耳 は、かく在りたいものよ その願望ではなかろうか
40にして不惑 も 惑わないヒトでありたい

そうでない自分があるから、それを克服したいとの願い、祈りじゃなかろうか

そうでない自分を嘆くんじゃなくて、そうでない自分を発見したことを悦ぶべきじゃなかろうか


深秋(白)に、赤(朱)の南天をみて思う

白秋を朱夏に往きたい(行きたい・生きたい・逝きたい)

今、そう在りたいと思う


今を悔いなく、精一杯にだ^^


'12.11.13 misasi・63歳・白秋の、まだまだ道半ば^^


2012/11/08

☆misasiしいがん考(思)☆ ((魚成)史跡【しいがん】)

しいがん
城川町魚成の一宮神社の東、矩形に整備された田んぼの一画に三体並んでいます




城川町魚成に畑を借りて4ケ月。月に4,5日のペースで畑に入るが午前6時から夕方の6時ころまで畑に居るので周辺に足を伸ばすのは稀です。
諸般の事情で車の使用に制限があるのも要因ではありますが^^;

今回の魚成入りは何時もと違う。
1日に入って2日、3日二泊連泊も初めて
そして今回は2日、男河内の鹿の見学。3日、一宮神社秋祭り見学が大きな目的で、畑作業は草取り追肥。前回に土を起こしたところに水仙の球根植えの軽めの予定。

2日の鹿踊りの準備は夕刻から、それまでの時間はタップリ、午前は草取りと追肥、、あ、水遣り^^

昼食を摂って、午後からは一宮神社に参拝、周辺を歩きました。

一宮神社は魚成川の西岸に小高い山腹にあって、東岸に拡がる田畑を見渡しているようにみえます。


矩形の田が奥伊予の地に似合わないと言ったら失礼千万ですが
初めて魚成を訪ねたときの意外感の印象があったのは確かなんです^^;

初めて矩形の田の中の道を歩くことにしました。

一般道(県道33号には竜沢寺への標識あり)から農道に入ると左手に茶畑風なコンモリトした一画があります。




意外な感のあった矩形の水田は、昭和51年度~53年度に亘って事業費5千万円、総面積7.5haの大工事だったようです。
お!委員長は 農人misasiの大先生!^^

視線が留まったのは ”史跡しいがん” と刻まれた石柱

裏面に由来、設置日等はありません。
どころか裏面は石材の切り出しのためと思える穴状の溝が並んでいて、廃材の利用なのかなとも・




お茶の木の生け垣の中に見える石積みが「しいがん」




土台に埋め込まれた塩ビパイプにシキビが飾られて・
熟れた烏瓜がお供えされています・


これは ”お墓” です・

し・い・が・ん 呟いてみたら 死に顔? 死、顔の文字が浮かびました

そして

水子の供養? 間引きの供養? そんな思いも浮かびました

三体並んだ 石に幼児の貌が浮かんで見えたんです

北側の一体 微笑んでる?

真ん中の一体 怒っているようにも・・ (大)

南側の一体 幼い・なんの疑いももってない表情にみえる (二体より明らかに小
西に向かって並ぶ三体の「しにがん」を取り囲むお茶の木は剪定され、その外周はきれいに刈り込みがされてます。




朝の靄り(朝霧)の深い城川のお茶は美味しいです。☆「収穫のために手塩にかけて育てる茶畑には花は禁物・」なのだそうですが(http://www.meisetudo.com/chanohana.html)、「しいがん」を取り囲むお茶の木には花が咲いて実がついてました。(撮影:'12.11.02)




==
三体の「しいがん」の前に額ずいて祈り
新しい神幸(お旅)の道を「お旅所」の会場まで歩きました。



===
畑に戻ると農人misasiの大先生、川向水田整備の委員長だった和さん(78才)と出会ったので
史跡しにがんのことを訊ねてみました。

「・あ、あれか・・
小さいころ、リュウガモリ城の兵士のお墓じゃと聞いたことがあるがの・」


リュウガモリジョウは初めて耳にしましたが、かって土佐の覇王長宗我部氏が伊予の地へ攻め入り攻防があったことことは知っていますが・
生地の鬼北、広見川の沿岸には古戦場の跡が保存されていますし

城川の三滝城址を訪れたこともあります・・

===

初めて「しいがん」を観て直感的に思った、間引き・水子の供養塚のイメージに
幼年少年兵士の姿が重なって来ました

それも、徴用に対して、働き手の大人男手に代わり 差し出された・・そんな姿が浮かんできました



===
ネットを繰って「しいがん」にヒットすることはありませんでしたが

「りゅうが森城」を繰るなかで、こんな記事に出合えました。

魚成中学校昭和31年度卒業生
http://park.geocities.jp/uonasi31/uonasirekisi2 




魚中三一会

魚成の歴史
                           京乃老鶯 



学校での日本史は、年表等の暗記ばかりで、本当に歴史に興味をもって楽しく学んだという思いがありません。ましてやこれまで郷土の歴史にはあまり触れたことがないような
気がします。郷土史を学ぶということは、自分のルーツを探ることでもあり、これによって郷土への愛着を深めることにもなります。私たちの郷土、魚成にも先人が営々と築いてきた歴史があります。それをたどるのは、古い時代の記録が少なく容易ではありませんが、ここでは文献などを参考に平安時代後期から現代に至る魚成の歴史の一端を独断でまとめました。




記事中「りゅうがもりじょう」は竜ケ森城(別名 隆ケ森城)と記されています。
他のものには
隆ケ森城が多かったですが
名刹、竜沢寺の名、建立の経緯を思えば竜ケ森城のほうがイイのかと

☆郷土を思う・・
この記事に出合えたことは「しいがん」のお引き合わせであったのかとの感慨に打たれます。
京乃老鶯さん、ありがとうございます。

===

『城川の むかし話 ー民話・伝説ー 』
(城川町教育委員会編 昭和54年5月15日初版)

27の民話・伝説が纏めれています。

その24話に「首なし馬 (魚成)」

「この話は、今から約四百年前ごろのできごとが語り伝えられたものである。「
・・・
天正十三年(1585年)、土佐の長宗我部元親は、伊予の地を攻めようとして
窪野方面よりおし入り、しだいに兵を進めて、今田・下相の方まで・・
魚成の地にある隆ケ森城(野村と魚成の境)を攻略せんとしていたのである。

この隆ケ森城の落城のときのこと・
魚成家の武士が一人、馬にまたがって竜沢寺を目指すが

川向橋を走り渡った間もなく人馬はたおれた
武士はそのまま起きあがらなかったが
馬は立て髪(ママ)を打ち振り、再び竜沢寺を目指して走りはじめる

その馬には首がない

首のなくなった馬は、約数町も走ったが・・バッタリと倒れる


・・・

この「首なし馬」がたおれたと伝えられるところを、現在も「シイガン」とよんでいて
付近一帯は田んぼになっているが、その田の中ほどに、小石をもりあげた塚がつくられていて、だれもこの塚を掘りくずしたりしよとするものはいない。

いまでも、だれが供えるのか、ときどき線香の煙がたちのぼっているのをみかえることがある。」


☆misasiしいがん考(思)☆

塚が三体あるのは・

やはり幼年・少年兵じゃないんだろうか

村の為、差し出された村の童兵じゃないんだろうかとの思いが捨てられない



走らんといけん・・・
竜沢寺まで走らんといかん・・・

   ・・・血糊の首が三つ・・・



むしろ、その想いが大きく強くなってくる


☆魚成の秋祭りの前日、「しいがん」に出逢えた


こんど魚成畑に行った時には

村の兵士に敬礼

線香をお供えしたいと思う (misasi)

2012/11/06

一宮神社の秋祭り② 神幸(みゆき)式【奉納相撲と"猿"】(11/3 お旅所)

「お旅所」で「神幸(みゆき)式」が執り行われる。


神事が始まる

「男河内の鹿」が祭壇の前に並び立ち 啼く
神様への挨拶だったのか踊りは始まらなかった

「四つ太鼓」が響く
四人の子達(男女)が台車から降りる

気がついたら子供相撲が始まっていた
今風に言えばベストと赤い前垂れ姿の子供たち(男)

「奉納相撲」




昨夜(11/2)、「男河内の鹿」見学のとき、これは手作りと教えてもらった面を被った"猿"

鹿踊りに猿? そう思った「男河内の猿」

「四つ太鼓」の台車から相撲を見てる・・



子供たちの熱戦が続く




"猿"が土俵に
「いざ!」って感じで

"猿"と子供の対戦

押し出して"猿"の勝ち


対戦が続く・・



"猿"が子供を投げ飛ばす
猿の勝利

神の前に仁王立ちの"猿"

行司が子供に何やら話しかけ
子供たちは、なにやら相談をしているように見える



(さぁ、どうすんじゃ)行司の声が聴こえたように思った


(どないする? やるか? やるか!)子供たちの声が聴こえたように思った



「三人掛かり」で子供と"猿"の対戦が始まった


押し出しで子供たちの勝ち!


観客が応援している
"鹿"も応援している・・



三人掛かりの対戦が続く


三人掛かりの子供たちが勝つ!


抱き合ってるように思えた・・

(ようやった) "猿"の声が聴こえた
(ありがとう) 子供の潤んだ声が聴こえてきた


結束・共生の知恵を"猿"が教えているように映る


これが知恵
共有が拡がり深まれば知恵はさらに知恵になる

「山の人」の知恵だと確信する

神の使いの"鹿"と

山の知恵モノ"猿"と

ヒト

結束・共感・共生・・