金砂神社(かなひさじんじゃ) ※画像左 |
■金砂神社(かねひさじんじゃ)
御祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)と天神様(てんじんさま)と和霊様(われいさま)であります。
・(略)・
和霊様は、伊達政宗の長男である秀宗に忠誠を尽くした山家公頼(やんべきんより)の霊を祀っています。
「えひめの記憶」 - [『ふるさと愛媛学』調査報告書]
http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=1&P_SNO=5&P_FLG1=4&P_FLG2=2&P_FLG3=2&P_FLG4=1
(1)和霊信仰の広がり①
ア 和霊信仰
(ア)信仰の起こり
宇和島市にある和霊神社(写真3-2-13参照)は非業の死をとげた山家清兵衛公頼(やんべせいべえきみより)(*3)を祭っている。
「清兵衛が和霊大明神になる過程は、我が国に古くからあった御霊(ごりょう)信仰のひとつの典型である。御霊信仰とは、恨みを呑んで死んでいった者の怨霊(おんりょう)がこの世に崇るという信仰で、・……代表的御霊には、藤原氏の陰謀の犠牲になった菅原道真(*4)や、反乱を起こして敗死した平将門などがある。」 (①)
「またタタリをしずめるためにその怨霊・御霊を祭祀(さいし)し、祭礼をくりかえす結果、怨霊・御霊は荒ぶる霊からやがて平和な恵みをもたらす守護神すなわちニギミタマ(和霊・和魂)に変化し、かえって霊験あらたかな神となる。この御霊から和霊への変質も、御霊信仰のいま一つの特色である。」(⑭)
この御霊から和霊への変質を経て、祭神山家清兵衛もまた霊験あらたかな神、和霊大明神として広く人々に信仰されるようになったと考えられる。
(イ)信仰圏
和霊信仰の広がりは、四国、九州、中国地方一円に及び、各地に和霊神社(独立社、境内社)が建てられたり、和霊神社の祭神が合祀されたりした(図表3-2-2参照)。このように信仰圏が拡大したことについては、①四国巡礼、②宇和島との交易・交通(特に海上交通)の発達、③各地を巡業した人形芝居などが重要な役割を果たしたと思われる。なお、②と信仰圏との関
係は図表3-2-2と図表3-2-3とを比較することによっても推測することができる。
上原甚太郎さん(後出)は「昔、宇和島にはたくさんの商い船がやって来ました。その乗組員たちが和霊神社の霊験あらたかなことを聞いて帰ります。四国巡礼の途中和霊神社に立ち寄る人もいました。芝居を見て人々は山家清兵衛の非業の死に心を打たれます。」と話している。 また人々の間では、霊験あらたかなことに加えて神社が立派であったことも話題になったであろう。 半井悟菴(なからいごあん)は『愛媛面影』の中で「不思議の霊験あるに依(よ)りて諸人の信仰他に異なり、殿社の結構も亦(また)比類なし。」と記し、和霊神社の全景(図表3-2-4参照)まで載せて紹介している。(⑯)
(ウ)カヤマチ(ワレイマチ)
和霊信仰圏には、和霊祭の夜(旧暦6月23日が多い)蚊帳をつらずに寝るという習俗が各地にあった(図表3-2-2参照)。これをカヤマチという。(夜明かしをするカヤマチ、二十三夜待ち〔陰暦23日の夜、月待ちをすれば願い事がかなうという信仰〕の習俗や地蔵信仰と習合したカヤマチもある。)例えば、徳島県名西郡石井町浦庄では「和霊さんの祭日の旧暦6月23日の夜は、ワレイマチといって全戸、蚊帳を吊(つ)らずに就床した。」という。(⑭)松山市三津浜では、「和霊の祭日には、カヤマチといって夜通し友達の家で遊ぶ。そうすれば願いごとがかなう。」と信じられていた。(⑭)県内の民俗に詳しい森正史さんは
「私の在所、温泉郡重信町下林にも和霊神社(三奈良神社境内末社)があり、7月23日(旧6月23日)の晩には、必ず余興の奉納があり、かつ蚊帳待ちする民俗があった。もう24、5年前になるが、私もそれをした思い出がある。現在もしているけれども以前のように徹宵してやらなくなった。」と記している。(⑰)このカヤマチ(ワレイマチ)習俗は、祭神山家清兵衛が蚊帳の中で殺害されたという伝承から生まれたのであろう。住環境の変化などによって、最近蚊帳はほとんど家庭から姿を消した。平成7年7月30日付の『愛媛新聞』には「蚊帳 店頭から姿消す」という記事が載っていた。こうなると、和霊祭の晩の夜明かしはともかく、蚊帳をつらないという習俗がなくなるのは当然だと言わねばなるまい。
*3:山家清兵衛公頼は伊達政宗の家臣であり、宇和島藩主となった長子秀宗の家老として派遣され、藩の基礎づくりに尽力したが、反対派の恨みをかい、元和6年(1620年)凶刃に倒れた。
*4:道真は天神様、将門は江戸の神田明神として祭られている。
(ア)信仰の起こり
宇和島市にある和霊神社(写真3-2-13参照)は非業の死をとげた山家清兵衛公頼(やんべせいべえきみより)(*3)を祭っている。
「清兵衛が和霊大明神になる過程は、我が国に古くからあった御霊(ごりょう)信仰のひとつの典型である。御霊信仰とは、恨みを呑んで死んでいった者の怨霊(おんりょう)がこの世に崇るという信仰で、・……代表的御霊には、藤原氏の陰謀の犠牲になった菅原道真(*4)や、反乱を起こして敗死した平将門などがある。」 (①)
「またタタリをしずめるためにその怨霊・御霊を祭祀(さいし)し、祭礼をくりかえす結果、怨霊・御霊は荒ぶる霊からやがて平和な恵みをもたらす守護神すなわちニギミタマ(和霊・和魂)に変化し、かえって霊験あらたかな神となる。この御霊から和霊への変質も、御霊信仰のいま一つの特色である。」(⑭)
この御霊から和霊への変質を経て、祭神山家清兵衛もまた霊験あらたかな神、和霊大明神として広く人々に信仰されるようになったと考えられる。
(イ)信仰圏
和霊信仰の広がりは、四国、九州、中国地方一円に及び、各地に和霊神社(独立社、境内社)が建てられたり、和霊神社の祭神が合祀されたりした(図表3-2-2参照)。このように信仰圏が拡大したことについては、①四国巡礼、②宇和島との交易・交通(特に海上交通)の発達、③各地を巡業した人形芝居などが重要な役割を果たしたと思われる。なお、②と信仰圏との関
係は図表3-2-2と図表3-2-3とを比較することによっても推測することができる。
上原甚太郎さん(後出)は「昔、宇和島にはたくさんの商い船がやって来ました。その乗組員たちが和霊神社の霊験あらたかなことを聞いて帰ります。四国巡礼の途中和霊神社に立ち寄る人もいました。芝居を見て人々は山家清兵衛の非業の死に心を打たれます。」と話している。 また人々の間では、霊験あらたかなことに加えて神社が立派であったことも話題になったであろう。 半井悟菴(なからいごあん)は『愛媛面影』の中で「不思議の霊験あるに依(よ)りて諸人の信仰他に異なり、殿社の結構も亦(また)比類なし。」と記し、和霊神社の全景(図表3-2-4参照)まで載せて紹介している。(⑯)
(ウ)カヤマチ(ワレイマチ)
和霊信仰圏には、和霊祭の夜(旧暦6月23日が多い)蚊帳をつらずに寝るという習俗が各地にあった(図表3-2-2参照)。これをカヤマチという。(夜明かしをするカヤマチ、二十三夜待ち〔陰暦23日の夜、月待ちをすれば願い事がかなうという信仰〕の習俗や地蔵信仰と習合したカヤマチもある。)例えば、徳島県名西郡石井町浦庄では「和霊さんの祭日の旧暦6月23日の夜は、ワレイマチといって全戸、蚊帳を吊(つ)らずに就床した。」という。(⑭)松山市三津浜では、「和霊の祭日には、カヤマチといって夜通し友達の家で遊ぶ。そうすれば願いごとがかなう。」と信じられていた。(⑭)県内の民俗に詳しい森正史さんは
「私の在所、温泉郡重信町下林にも和霊神社(三奈良神社境内末社)があり、7月23日(旧6月23日)の晩には、必ず余興の奉納があり、かつ蚊帳待ちする民俗があった。もう24、5年前になるが、私もそれをした思い出がある。現在もしているけれども以前のように徹宵してやらなくなった。」と記している。(⑰)このカヤマチ(ワレイマチ)習俗は、祭神山家清兵衛が蚊帳の中で殺害されたという伝承から生まれたのであろう。住環境の変化などによって、最近蚊帳はほとんど家庭から姿を消した。平成7年7月30日付の『愛媛新聞』には「蚊帳 店頭から姿消す」という記事が載っていた。こうなると、和霊祭の晩の夜明かしはともかく、蚊帳をつらないという習俗がなくなるのは当然だと言わねばなるまい。
*3:山家清兵衛公頼は伊達政宗の家臣であり、宇和島藩主となった長子秀宗の家老として派遣され、藩の基礎づくりに尽力したが、反対派の恨みをかい、元和6年(1620年)凶刃に倒れた。
*4:道真は天神様、将門は江戸の神田明神として祭られている。
0 件のコメント:
コメントを投稿
ご訪問ありがとうです。
感想などいただけたらうれしいです。