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2010/10/29

キャベツ(英語:cabbage)

キャベツ(英語:cabbage)は、
アブラナ科アブラナ属の多年草。
野菜として広く利用され、栽培上は一年生植物として扱われる。

名前は英語に由来するが、さらにその語源はフランス語のcaboche(頭)から。
別名の甘藍(かんらん)は中国語でも甘藍(ganlan)と呼ぶ事に、玉菜(たまな)は結球する性質に由来する。 とのことです。

キャベツの千切り  シャキシャキとした歯ごたえ。 洋食メニューには欠かせません。

ざく切りで 野菜炒め、焼そば。 鍋にも好いですね。博多でいただいたモツ鍋~根元のかたいところがシンワリ~と甘い♪ ロールキャベツも好いな♪

大好きなお好み焼きも、影の主役はキャベツかもですね。


お好み焼き"樂"さんで、撮らせてもらいました。
 ”gaku”さんと読みます。

この日は「ソバ入り・ハーフ、ネギトッピング」

完璧な広島焼です、旨いです!



やはり旬の甘味、旨さかな・・・ あれっ、キャベツのシュン って何時?

もはや食卓に並ばないことはないようなキャベツ、スーパーにも年中陳列されてますが・・

前記のキャベツ語源のあとに、こんな記述がありました。


本来の旬は原産地の気候(地中海性気候)から冬季と考えられる。
しかし、日本では栽培地の標高や緯度で出荷時期が異なり、さらに今日に至る品種改良の結果、
年間を通して出荷可能となっているので、特定の旬が存在しない。

日本では出荷時期によって、
冬キャベツ(11~3月。作付・出荷ともに最多で、球が締まった平たい形が特徴)、
夏秋キャベツ(7~10月。冷涼地で栽培され、高原キャベツとも)、
春キャベツ(4~6月。生産量は少なめだが人気が高く、近郊栽培中心。新キャベツとも)
に分類されている。  

年中、生産出荷されているんですね(安心・笑)


☆☆
なんで突拍子もなくキャベツなのか~!

きのう、
いわきからDVDが届きました。

Yui&Ayaちゃんの”スクスク録”

Yuiちゃん(3.10才)は上手にヘラでお好み焼にパクついています♪

Ayaちゃん(0.6才)は、gakuさんの、これは見事なヘラ使いに見入っています♪


↑こんな写真になったのは・・まだ公開のお許しがいただけないのです(syun;)

お正月にはYuiちゃん、Ayaちゃんと お好み焼き"樂" に行きたいな~なんて思っていたからでしょうか(笑)

☆そして、ベランダで一服火をつけたら、




いつもお二人で農作業をされている姿には接していますが
お名前どころか、声をかわしたこともありません

稲を刈られたあと、鋤をいれて寝かせた畑に今日は、なにやら苗を植えておられます

・・・・・・



(なんの苗なんだろう)と、シャッターを切っていたら

おかあさんが「まだ苗がちっちゃいけどな~」「ごきんじょかいな」と声をかけてくれました。

「いつも丹精ありがとうございます」と応えたら

おとうさんが「春のキャベツ」「4月には育つからおいでや」と。

すてきな笑顔のお二人でした。






きょう二人に植えられたキャベツの苗は、

二人の丹精をいただいて 

冬の寒風に耐えしのび、甘味をたくわえて

4月には人気の新キャベツとそだっていく



道は続く

続くから道

歩きつづけよう






2010/10/28

梅津寺から港山。そして三津浜。”ぶらり4”

古深里(港山)から洲崎(三津浜)へ上陸 で”ぶらり3”を終えました。

”ぶらり4”は「デビラ物語」で行きたいと思ってます。どうなりますか(笑)

きょう(10/27)は、「読み聞かせ」デビューと云うことで、伊予鉄高浜線に乗って梅津寺へ向かいました。
路線の概略は、

松山市駅=(略)=古町===(略)===三津浜=港山=梅津寺=高浜  (9.4営業キロ)
7:23発に乗って、梅津寺には20分ほどで着きます。

前にも書きましたが、この路線は明治21年開業(三津~松山)が始りです。
四国初の鉄道で、日本初の軽便鉄道だそうです。

梅津寺公園に展示されてます。漱石さんも、この列車でお城下(松山市中心のことをこう呼ぶ方はまだ結構おられます)へ下ったのでしょうね。
(「下った」と書いたのは、げんざい高浜から松山市駅が「下り」になっていることに因んだものです・笑)

駅名の変遷をみると
現在の松山市駅は【外側駅】。
車両整備、列車交換の拠点である古町駅は【三津口駅】であったようです。
(参考 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BA%88%E9%89%84%E9%81%93%E9%AB%98%E6%B5%9C%E7%B7%9A)

ここからだけでも、三津浜の隆盛をうかがい知ることができそうです。
街に入ると白壁の商家が現存しています。

またまた余談が長くなりました(笑)


きょう(10/6)の思い付きは、デビラ街道を歩きたかったのです。

■冬季限定、デビラ街道

渡し乗り場前の道は、通称デビラ街道と呼ばれています。
デビラとは瀬戸内海でとれるカレイの一種で、漁師が釣ってきたものを浜に上げてすぐに開き、4日ほど乾燥させて珍味にします。
瀬戸内海をはさんだ尾道では「デベラ」といわれ、口に縄を通して干しますが、
三津浜流は開いたまんま専用の網の上に広げて天日干しします。

 
デビラ街道が出現するのは、デビラが旬を迎える12月~2月。
いつもはガランと静かな岸壁の通りに、いく枚もの網が並んで活気づきます。
冬の光にきらきらと輝く白く透き通ったデビラの身。
作業するおばちゃんたちの丸い背中もやわらかな日ざしを受けて、ほほえんでいるよう。
確かに風は冷たいけれど、心がほのぼのあたたかくなる。
デビラ街道は、そんな三津浜ならではの冬の風物詩です。
 

三津浜ネットで上記の記事を拝見したのが、この1月10日。
前日に鯛メシ専門 鯛やのニュースをTVで見たこともあって、愛機ペンタくんを携えて訪れたのが最初でした。

 ところが、まさに旬の時季と云うのにデビラ街道に、デビラ一枚、人一人っ子いないのです・・・
                            

写真はデビラ街道とは渡し場を挟んで反対側、内港の奥手の方で撮ったものです。

それにしても、この数は・・・







魚屋かあちゃん 
5人ほどの、かぁちゃんが 手際良く調理されていました。

「あれが、デビラですよね?」と尋ねると、

「あ~、ガド! 包丁で骨割って、炙って 旨いぜ!」
そう応えてくれたのは、もう出来上がっておられる感じの、お父ちゃんでした。

漁師のご主人でしょうか、息はピッたし(笑)

「そいつは今朝あげてきたんよ」
声の向けられた先に、肉厚な太刀魚が銀色に輝いていました!


「まかせて」と、かぁちゃんが。
まことにも、まことにも息が合います。

すこし時間をちょうだい、とのことで初体験したのが「洲崎の渡し」(三津浜からの乗船)です。

また、枝道~(笑)

とまれ、この日(1/10)は「デビラとはなんじゃい?」の課題を残すこととなったです。
(枝道ついでに、タチの刺身、焼きの切り身、4人分以上はありました。)

☆☆10/6の光景にもどります!
   
    (デビラとはなんじゃい?)・・・やはり人通りはありませんww    

写真左手が海で、防波堤の高さは1.5m強でしょうか。
 
 右手には四角い枠付きの網がたくさん積み重ねられてます。









そのとき、声が!
「写真撮りに来たん?」               


漁師のおかみさん然の女性が作業の手を止めず声を掛けてくれました。

他に人は見当たりませんし、現にパシャパシャやってます。(渡し場も近いし、それこそデべラ街道目当ての マニアも多いのでしょうか)





1月のことはおいて、「旬にもなると作業の手も多くなるんですか」などと問うと
やはり、手を休めず
「デべらを干すのも、ウチトコと、かぁちゃんトコだけになった。」   
(かぁちゃんトコが、魚屋かあちゃんを指すことはすぐ理解できました。)

「家は若いのが漁をやってくれとるけん、てつどうとる」

(「てつどうとる。」は「手伝っている。」)













(デべラとは何ぞや)さぁ、いかに切り出そうかとしていたら
まるで見抜いたかのように

「これが」と1枚をつまんで 「これが赤ビラメ。」

         「ビラメは三つおって、赤ビラメ、白ビラメ、そしてガド

(またまたガドが登場したぞ・・。
(かぁちゃんの魚屋では、「それはビラメじゃのうて、ガド」と聞いたが、街道のかぁちゃんは「ビラメのひとつ・・」
「ガドビラメ」ですか?)と尋ねようとしたら、

「3つとも種類は違うんよ。
舌ビラメにならんカレイ・・
あのぶら下げとるのがガド」

(うん、1月に魚屋母かあちゃんで見たガドだ)













「下のハガキに干しとるのが白ビラメ」

(((はがき!???

動揺が可笑しかったのか、街道のかぁちゃんは頬を緩めて立ちあがり海側にわたって

「これが白ビラメ」


ガドや赤ビラメの骨がましさのない、真珠のような輝きがありました。

(それにしても、この金網の枠が「はがき」とは・・ )
由来でも聞こうかなとしたら、かぁちゃんはもう作業に戻っておられました。


「忙しいのに手を止めてまで、ほんとにありがとうございました。また寄せてくださいね。」

「漁があったらやってるよ。」と、街道のかぁちゃん。


はがき・・ もしかしたら防波堤のことを波垣と云うのかも知れないな。
            やはり、干し台の金網かな・・

そんなことを思いながら商店街の方へ向かったんですが、
1月のガド混迷と比べると、まるで異質な新たな楽しみとなったと云う感じでした。

        新たな課題が、新たな歩を踏ませてくれる



共生のコトバ

2軒になったデビラ干し
魚屋かあちゃんでは 「それはデビラじゃなくてガド
街道のかぁちゃんは 「ガドはデビラのひとつ

 背反してしているような2つの言葉が違和感なく受け入れられる
繋げてみると

「それはデビラじゃなくてガドって言うんよ。
   デビラを付けるのは赤と白で、ガドカレイはガトって呼ぶデビラなんよ」

うん、これで納得(笑)。


背反しているようで、しかし対立することはない(無視すると言うのでも、共存すると言うのでもない)・・・・そんなコトバ関係は在って欲しい

     そんなコトバを 阿吽 、共生のコトバと名付けたい

(未定稿。推敲中)


2010/10/24

梅津寺から港山。そして三津浜へ。 ”ぶらりⅢ”

やっと”ぶらりⅢ”。遅筆です。ナマケものか(笑)

【ぶらりⅢ】渡しに乗って、港山(小深里)から三津浜へ。

その前に(笑)
港山に江戸時代の「常夜灯」が遺っていると云うので、
10/20「読み聞かせ」のあと、寄ってみました。
(この日は、読み聞かせデビューの予定でしたが、都合で27日に延期となりました。 関係nai?

10/6”ぶらり”当日に気付かなかったのは
個人宅の敷地に食い込んだ感じに建っていたのです。

金毘羅常夜燈と彫られています。
笠石と灯袋は新しくおかれたもののようです。













渡しの歴史を示す常夜燈と単純に思っていたのですが、
刻まれた文字にあるように金毘羅信仰のもののようです。

備後の常夜燈アルバムから下記を引用させていただきます。

こんぴら信仰と常夜燈

                 金毘羅信仰は 一般には讃岐の金刀比羅宮
                 すなわち金毘羅大権現を尊崇する信仰である。
                 「金毘羅」はもともとインド仏教の神クンビーラに
                 由来し 鰐を意味し 水に関係します。
                  江戸時代になると 金毘羅神に祈願すると 
                 何でも必ずかなえられるという信仰が広がり、
                 広く漁業者や水運関係者の尊崇を集め、また水に
                 かかわることから 農業神としても信仰されました。
                  歌舞伎や浄瑠璃でも盛んに演じられたり、
                 「こんぴら船々」で知られる 金毘羅詣でが盛ん
                 になりました。
                  明治以降は仏教色が排除され「金刀比羅宮」と
                 呼ばれるようになりました。従って 常夜燈の竿に
                 「金刀比羅」と彫られていれば明治以降、「金毘羅」
                 と彫られていれば 江戸時代のものと見分けられる
                 ようです。

                  祠もお社がなくても 常夜燈そのものがこんぴら
                 様をおまつりしたものということになります。

さて、本筋に戻りまして(笑)
三津浜方から港山の渡し乗り場に向かってくれた渡船が着岸です。


以前に乗った船より二回りは大きく新造船です。

それでは船旅を・・
乗客は私一人です。
船頭を三津浜方へ180度、転回。
写真は90度、内港の方向。左手のクレーンは造船所で、かなりな深度がうかがえます。
「小深里」と地名との関係も思ったりしました。

船頭さんにお聞きしたら「この3月におろした新造」とのことでした。
三津浜の岸壁に旧船がつながれています。

三津浜に接岸。所要3分ほどの船旅です。

三津浜の人びとは、この渡しを「洲崎(すさき)の渡し」「三津の渡し」と言い、
港山の人びとは、「古深里(こぶかり)の渡し」「港山の渡し」と言っている。

「渡しの由来」は、こう書き始められています。


渡しの始まりは文明年間(1469)と言われ、の記述に続き1603年(水軍根拠地)、1635年(御船手の設置)、1664年(洲崎魚市の隆盛)~この魚市は現在の「松山市中央卸売市場(水産市場)」に連綿と繋がれています。
港山で見た、小林一茶の渡船(1795年)も記されています。

おどろきは、手漕ぎの時代が長く、エンジン付き渡船は昭和45年~わたしが松山で学生時代をおくっていた当時、二十歳を過ぎたころのこと!

現在正式名称は松山市道高浜2号線の一部(約80米)。
所要3分弱の道ですが、その渡った想い、繋いだ想い・・喜び、悲しみ、泣き、笑い・・ 感慨にうたれるのみ。言葉にならず。

渡る。
渡す。


繋ぐ。
繋がる。

歩き続けます

(ぶらりⅣ)へ続く

2010/10/22

テンガイの花

今朝 散歩道の法面が刈り取られていました。

移り来れば、首をさらし、地にかくれる、その花も足許から刈られていました。


天上、天辺を見上げ

天涯の地に咲くその花は、さらに天上、天涯を指して咲き続けているのだと思う

テンガイの花は「そこに在る」と無言で語る



歩きつづける彼岸花咲きつづける  種田山頭火

彼岸花の赤さがあるだけ 種田山頭火


以下は、mixiフォトアルバム「天上、天涯の花」より転載。


2010年10月16日 20:51

お彼岸のころに咲くから彼岸花。
この花には曼珠沙華、地獄花、死人花、またタイトルにおいた「天上花」「天涯花」ほか異名は一千もの数になると云う。
それだけ、人の目を惹きつけるモノがあるんだろう。
異名の数をはるかに多い想いがこめられているんだろうな・・

朝夕の散歩道は整備の行きとどいた遊歩道

整備、管理の始まったころから、この花の姿が見えなくなった・・


その花の特徴そのままに突然に姿があらわれた
管理の隙間をついたのかな、なんて頬がゆるんだ


頬笑みかえすこともなく
無言で

天上(天涯)を指して咲いている
『そこに在る』 無音の声・・


その花の名には
「天上、天涯の花」が似合うとおもう

2010/10/15

ゼータの気持ち

10月13日、2回目の「読み聞かせ」見学に大遅刻。
到着したときは、メンバーの読み聞かせ後のミーティング中。


おわびして次回の見学をお願いすると、
「それでは、これ読んでくださいますか」と手渡されたのが おもちのきもち

かがくい ひろし作
講談社発行















しゅんかん、私の眉も八の字!(笑)
それでも受け取ったのは 、「読み聞かせ」をやってみたい。と思っていたからにちがいない。

自分の気持ちなのに他人事のように、そう思った。

話の大筋は、
主人公の鏡餅くん、仲間があんこ、きなこ・・に塗されてパクパク食べられるのを見て、こう思う。
いまのところ床の間に飾られているが、いつ何時食べられるやら・・。  {八の字まゆ}
そこで鏡餅くんは足を伸ばして逃げ出すことに~もうウキウキ  {にこにこ}

おなかが空いてきた鏡餅は、人間さんが美味しそうにおもちを食べている・・ならと、じぶんの足をパクリ、パクリ。足は食べ終わってお尻に・・だんだん身体が固くなって、ドーナッツ形。 {うっとり顔}

その姿を見て村人
「なんで、こげな格好になったじゃろ?」

 「さ~てね。それはお餅にきいてみんと分からんのう」 (おしまい)

{表情(こころ)の変化}、どんなに読み聞かせるかがポイントなのかなぁ・・不安。

でも読んでみよう。 
なぜって、読みたいから。聞いてくれる子たちのココロに少しでもふれてみたいから。

(10月20日)
「おもちのきもち」を、みんなと読みたいとおもいます。ミサシです・・  こんな出足でいいかな


ゼータのきもち 

2010/10/12

梅津寺から港山。そして三津浜へ。 ”ぶらりⅡ”


(ぶらりⅡ)秋山兄弟の像をあとに港山へ。

好古像から元の海岸線にもどり、港山を目指します。
すこし行くと岩礁(?)に
「栽松碑」

梅津寺海岸一帯の松は、明治42年、松山の俊成比古次郎が伊藤博文公および有志者の寄付を得て、松の種を蒔き育てたものです。この由来を後世に伝えるために石碑を建立しました。









さすが碑の後背は松が豊富です。

碑には建立の時が 昭和五年七月 と刻まれています。
栽松のとき、碑建立の日には・・この岩肌も波にうたれていたのでしょうか。

港山方へすすむと右手は防波堤があり海は見えませんが、
少し行くと砂浜への出入り口があります。

浜には海水浴のための貸し席が組まれていて
カフェもあります。
秋の陽にヒッソリと佇む組み木のあいだに夏の歓声が刻まれてもいるようでもありました。

三津浜内港の入口あたりも望めます。

ここ、浜への入り口で海岸線の道は行き止まって県道へ。
県道にむかってすぐ、公民館に幟が、
                    あす(10/7)は秋祭り!

しばらく県道を道なりに。
町家が切れて高浜線の鉄路が見えてきます。
ちょうど松山市駅から上り高浜(梅津寺)行きの電車。
踏切の左手に港山駅が隠れています。

踏切を渡って直進すれば海にでます。

海まで100mあまりですが、
       時間が濃密に感じられました。




1334~1337年に築城された「港山城跡」の案内。


「子育て地蔵」も祀られています。

そして、 小林一茶!

洗心庵跡

小林一茶句会の地
寛政七年(一七九五)二月九日













案内に依れば、一茶の来遊は寛政七年(1795)一月十五日。一茶、三十三才の時と。
・・二月五日三津浜の方十亭を宿にし九日小深里(現在の港山町)の洗心庵に俳友を集めて句会を催した・・とあります。

一茶といえば雀の句が浮かぶ程度の知識しかありませんが、
 三津浜は子規が最後の上京にさいし俳句仲間と集ったところ・・感慨は浮かびます。

 海(三津浜内港)は目の前ですが、
幟にあった湊三嶋神社へ。(シマは山ヘンに島の字) 


港山城の麓といった位置になるのでしょうか、
三津浜の港を見おろす場所になります。

対岸が三津浜。
海沿いに小深里(港山)から三津浜に廻る道はありません。 


小深里の渡し
港山駅から港へ突き当たったところに渡船乗り場があります。
券売機とかなにもありません。
ブザーが設置されているだけです・・・


押そうとしたら!


三津浜方から、迎えの船が渡ってきてくれていました。

港山(小深里)と三津浜が”渡し”で結ばれています。

港山の方は、いまも 小深里の渡し と呼んでいるそうです。

(ぶらりⅢに、つづきます)


”韃靼そば”

きのう今治に向かうとちゅう、お昼に 韃靼そば(だったんそば)  をいただきました。


”韃靼!?”  (読めない・笑

お聞きすると
「ダッタンと読むんですよ。ルチンと云うポリフェノールがたくさん含まれていて、美容に好いんですよ。」






美容に効く、とならば 「韃靼をお願いします!」(笑))



2枚のが出てきました。
右の黄色いっぽいのが”韃靼そば”~ウコンが練りこまれているような感じでした。

「苦そば」の異名があるそうですが、のどに通った後にのこるのは「苦み」と云うより、どこか懐かしさのある 草原の香り で好感です。

箱そば で有名な 田舎屋さん(奥道後店)でいただきました。

松山~今治をむすぶR317沿いにあります。

”田舎屋”~その名のとおり外観、店内も趣があります。



山口のYTくん一家と待ち合わせ、鈍川温泉へ出発です。

好いお顔になったかなー 

鈍川の湯で、さらに磨きをかけるといたします (鏡が苦手なこの頃・(笑))))


==
 韃靼 

2010/10/08

♪髪の根っこは染まらんさ(♪でんさー)

上海のKKに、平素の不精をわびて近況をメールした。
1時間ほどのちの時刻に返信が入っていた。

misasi
久しぶり。
やっと重い腰があがったようでこれを切っ掛けに積極的に外部と関わり合い輪を広めてください。
・・・
良い歌を見つけたので送ります。

「パーマ屋ゆんた」.txt
Begin




いまは北関東に居をもって、仕事は上海で活躍しているKKは、高校時代に知った友人
便りをくれる友人はKKだけになった

♪髪の根っこは染まらんさ(♪でんさー)

歌詞の一節が耳にこびりついて反響する

♪髪の根っこは染まらんさ(♪でんさー)

梅津寺から港山。そして三津浜へ。 ”ぶらりⅠ”

 (Ⅰ)梅津寺駅から秋山好古、真之兄弟の像

10/6小学校での「読み聞かせ」を体験見学して、好天気にもさそわれて”ぶらり歩き”
無意識に意図していたのかもしれません~3年ぶりのネクタイ姿ですが、足許はmくんにもらったナイキのシューズです(笑)

梅津寺駅
駅舎の左手が市街(松山市駅)方向。
右手が高浜駅(観光港へは1km。)











出足から脇道ですが(笑)
記録しておきたいことが・・・

駅舎の右手に隣接する形で「梅津寺公園」がありまし

わたしが初めて松山を訪れたのは小6の修学旅行。
公園は目玉のスポットでした。ジェットコースターの轟音がいまも耳底にのこっています。

いま、扉が開かれることはなく、チケット売り場もシャッターが下りています。


「平成21年3月15日をもって閉園いたしました。
46年間のご愛顧を心より感謝申し上げます」

大きな掲示板にいまも1枚が掲示されてます。

掲示板のむこうにそびえるヤシの木は、小6の眼に焼きついた驚愕を思い出させてくれました。
(当時のものかどうかは不明です。)

46年間!?に記憶がぐらつきました~(中学生になってたハズだが・・) 調べてみると、

・・前身は、伊予鉄道が1935年11月4日に開園した遊園地で、当初は「梅津寺遊園地」と言う名称だった。・・
1963年4月1日に「梅津寺パーク」と言う名称でリニュアールオープンした・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%B4%A5%E5%AF%BA%E5%85%AC%E5%9C%92 より。

半世紀の歴史でも感慨がわきますが、前身の開園から数えると75年間、親しまれていたのですから感慨はより一入のものとなります。

梅津寺公園駅は 「伊予鉄道高浜線」の駅ですが、wiki記述に高浜線、公園の歴史に触れるにつけ「梅津寺公園駅」の名は後世に残してほしいと思います。

その梅津寺公園駅の西側は海になってます。
ホームに立てば、眼前にこんな光景を見ることができます。
北側には「梅津寺海水浴場」が 拡がります。


秋山兄弟像の案内看板を辿って海沿いを歩くことにしました。(やっと出発です・笑

しばらく行くと2つ目の看板。
左手(写真に写っている道・山手)が秋山兄弟銅像へ。
右手に海沿いの道になっています。

ここは時間フリーの”ぶらり歩き”ですから、山手に。
すぐに高浜線に沿って走る県道をまたぐ橋があります。

写真前方が梅津寺・高浜方。
左手が海になります。











橋を渡って少し進むと、なんと!道が分岐です~!?
(てっきり兄弟が並ぶ像と、かってに想像をしていました。像の存在はきょう、初めて知ったにせよ、思い込みは慎まねばなりません・笑

それにしても海軍さん(弟、秋山真之像)が、さらに山手。
兄の陸軍大将、秋山好古像がくだり海手とは!?

とまれ、海手を歩くことにしていますから、まずは山手へ。
曲がりくねってますが、1つ標識を過ぎれば到着です。

秋山真之像
何を読まれているんでしょうか

道路から見上げるとこんな感じ。
(自動車で訪れること可)












両脇に立っているのは戦艦三笠の砲弾かな?なんて、うろうろしました。


やはり、海軍中将の碑ですね。



句碑も建てられています。


梅が香やおまえとあしの子規真之  酒井黙禅

(うめがかや”おまえとあし”のしき、しんし)











「剛友」~なんと素敵な言葉です。

「おまえとあし」 さしずめ「貴様と俺」でしょうが、
たしかに、いまでも、一人称の「わし」を「あっし」と発声することがあります。

「友」よ・・

登り口からはかなり昇っています。

~坂の上の雲~ (笑)













二手に分かれたところにもどると、兄、好古さんの銅像はすぐ近くに建てられていました。

秋山好古像


写真では存じ上げる日本人離れした顔です。
余分をすてた質素な生活が偲ばれます。

黙して立たれて、梅津寺の海を見下ろしておられます。


NHKドラマ「坂の上の雲」の第二部楽しみです。