しいがん
城川町魚成の一宮神社の東、矩形に整備された田んぼの一画に三体並んでいます
城川町魚成に畑を借りて4ケ月。月に4,5日のペースで畑に入るが午前6時から夕方の6時ころまで畑に居るので周辺に足を伸ばすのは稀です。
諸般の事情で車の使用に制限があるのも要因ではありますが^^;
今回の魚成入りは何時もと違う。
1日に入って2日、3日二泊連泊も初めて
そして今回は2日、男河内の鹿の見学。3日、一宮神社秋祭り見学が大きな目的で、畑作業は草取り追肥。前回に土を起こしたところに水仙の球根植えの軽めの予定。
2日の鹿踊りの準備は夕刻から、それまでの時間はタップリ、午前は草取りと追肥、、あ、水遣り^^
昼食を摂って、午後からは一宮神社に参拝、周辺を歩きました。
一宮神社は魚成川の西岸に小高い山腹にあって、東岸に拡がる田畑を見渡しているようにみえます。
矩形の田が奥伊予の地に似合わないと言ったら失礼千万ですが
初めて魚成を訪ねたときの意外感の印象があったのは確かなんです^^;
初めて矩形の田の中の道を歩くことにしました。
一般道(県道33号には竜沢寺への標識あり)から農道に入ると左手に茶畑風なコンモリトした一画があります。
意外な感のあった矩形の水田は、昭和51年度~53年度に亘って事業費5千万円、総面積7.5haの大工事だったようです。
お!委員長は 農人misasiの大先生!^^
視線が留まったのは ”史跡しいがん” と刻まれた石柱
裏面に由来、設置日等はありません。
どころか裏面は石材の切り出しのためと思える穴状の溝が並んでいて、廃材の利用なのかなとも・
お茶の木の生け垣の中に見える石積みが「しいがん」
土台に埋め込まれた塩ビパイプにシキビが飾られて・
熟れた烏瓜がお供えされています・
これは ”お墓” です・
し・い・が・ん 呟いてみたら 死に顔? 死、顔の文字が浮かびました
そして
水子の供養? 間引きの供養? そんな思いも浮かびました
三体並んだ 石に幼児の貌が浮かんで見えたんです
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北側の一体 微笑んでる? |
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真ん中の一体 怒っているようにも・・ (大) |
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南側の一体 幼い・なんの疑いももってない表情にみえる (二体より明らかに小 |
西に向かって並ぶ三体の「しにがん」を取り囲むお茶の木は剪定され、その外周はきれいに刈り込みがされてます。
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三体の「しいがん」の前に額ずいて祈り
新しい神幸(お旅)の道を「お旅所」の会場まで歩きました。
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畑に戻ると農人misasiの大先生、川向
水田整備の委員長だった和さん(78才)と出会ったので
史跡しにがんのことを訊ねてみました。
「・あ、あれか・・
小さいころ、リュウガモリ城の兵士のお墓じゃと聞いたことがあるがの・」
リュウガモリジョウは初めて耳にしましたが、かって土佐の覇王長宗我部氏が伊予の地へ攻め入り攻防があったことことは知っていますが・
生地の鬼北、広見川の沿岸には古戦場の跡が保存されていますし
城川の三滝城址を訪れたこともあります・・
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初めて「しいがん」を観て直感的に思った、間引き・水子の供養塚のイメージに
幼年少年兵士の姿が重なって来ました
それも、徴用に対して、働き手の大人男手に代わり 差し出された・・そんな姿が浮かんできました
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ネットを繰って「しいがん」にヒットすることはありませんでしたが
「りゅうが森城」を繰るなかで、こんな記事に出合えました。
魚成中学校昭和31年度卒業生
http://park.geocities.jp/uonasi31/uonasirekisi2
魚中三一会
魚成の歴史
京乃老鶯
学校での日本史は、年表等の暗記ばかりで、本当に歴史に興味をもって楽しく学んだという思いがありません。ましてやこれまで郷土の歴史にはあまり触れたことがないような
気がします。郷土史を学ぶということは、自分のルーツを探ることでもあり、これによって郷土への愛着を深めることにもなります。私たちの郷土、魚成にも先人が営々と築いてきた歴史があります。それをたどるのは、古い時代の記録が少なく容易ではありませんが、ここでは文献などを参考に平安時代後期から現代に至る魚成の歴史の一端を独断でまとめました。
記事中「りゅうがもりじょう」は竜ケ森城(別名 隆ケ森城)と記されています。
他のものには隆ケ森城が多かったですが
名刹、竜沢寺の名、建立の経緯を思えば竜ケ森城のほうがイイのかと
☆郷土を思う・・
この記事に出合えたことは「しいがん」のお引き合わせであったのかとの感慨に打たれます。
京乃老鶯さん、ありがとうございます。
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『城川の むかし話 ー民話・伝説ー 』
(城川町教育委員会編 昭和54年5月15日初版)
27の民話・伝説が纏めれています。
その24話に「首なし馬 (魚成)」
「この話は、今から約四百年前ごろのできごとが語り伝えられたものである。「
・・・
天正十三年(1585年)、土佐の長宗我部元親は、伊予の地を攻めようとして
窪野方面よりおし入り、しだいに兵を進めて、今田・下相の方まで・・
魚成の地にある隆ケ森城(野村と魚成の境)を攻略せんとしていたのである。
この隆ケ森城の落城のときのこと・
魚成家の武士が一人、馬にまたがって竜沢寺を目指すが
川向橋を走り渡った間もなく人馬はたおれた
武士はそのまま起きあがらなかったが
馬は立て髪(ママ)を打ち振り、再び竜沢寺を目指して走りはじめる
その馬には首がない
首のなくなった馬は、約数町も走ったが・・バッタリと倒れる
・・・
この「首なし馬」がたおれたと伝えられるところを、現在も「シイガン」とよんでいて
付近一帯は田んぼになっているが、その田の中ほどに、小石をもりあげた塚がつくられていて、だれもこの塚を掘りくずしたりしよとするものはいない。
いまでも、だれが供えるのか、ときどき線香の煙がたちのぼっているのをみかえることがある。」
☆misasiしいがん考(思)☆
塚が三体あるのは・
やはり幼年・少年兵じゃないんだろうか
村の為、差し出された村の童兵じゃないんだろうかとの思いが捨てられない
走らんといけん・・・
竜沢寺まで走らんといかん・・・
・・・血糊の首が三つ・・・
むしろ、その想いが大きく強くなってくる
☆魚成の秋祭りの前日、「しいがん」に出逢えた
こんど魚成畑に行った時には
村の兵士に敬礼
線香をお供えしたいと思う (misasi)