「蝶々」の読みは「ちょうちょう」ですが、その音感から浮かぶのは蝶々夫人で、「ちょう」となると別世界となってきます(笑)
冗句は措いて、幼いころから「チョウチョ」と呼び慣れているということ。
きょうは、午後の散歩に常と違ってカメラに望遠をセットして出掛けたのは、急速に天気が回復して、チョウチョを撮りたいと思ったからなんです」。
幼いころに、昆虫採集に熱中した記憶はないし、
むしろ、ピンで止められた標本類には嫌悪、恐怖感をもっていたように思うのですが。
それが何故今日、「チョウチョが撮りたい」と思ったのか。
(カメラ写真も、早期リタイアの無聊慰めに子に勧めれて4年目になりますが、目の前にチョウチョを見つけたときシャッターを押したんだな、と言う程度です。)
■写真に撮ることができたなかから何枚かを
モンキチョウ(紋黄蝶) 紋白蝶と並んで幼いころから名前を知っているチョウチョです。
ひらひらと舞って、花を渡っていますが、舞う姿は追い切れません。
望遠レンズですからなおのことで、花に焦点を合わせて待つだけです。
アカタテハ(? 図鑑を見ても解らない、区別がつかない・笑
「チョウの画像集」
を捲って、タテハチョウの仲間かな・・これくらいしか知識はありません。
を捲って、タテハチョウの仲間かな・・これくらいしか知識はありません。
アゲハ そんな知識ですが、アゲハは一見してそれと解るチョウチョのひとつです。
急上昇、急降下の舞いは捉えること叶わずでした。常のことですが(笑)
モンシロチョウ(紋白蝶) あっ、モンシロ!とシャッターしましたが大ブレでした(笑)
よ~っし!とカメラを持ち直したとき姿は見えませんでした。
、
■「チョウチョを追い続けたい。」
そう思いました。
写真撮影のテーマ(対象)と云う意味ではありません。
具体的に、
【夢見るじぃちゃん (雨の日のチョウチョ)】
5/14付・mixi日記のタイトルで
内容は、『雨の日のチョウチョ』~絵本~のラフ原稿です。
推敲しなくっちゃと思いながら、もう1か月以上放りっ放しです。
あきらめて放擲したのじゃありません。
理由は、こうだと思います。
なぜタイトルが『雨の日のチョウチョ』なのかが、作者たるボク自身が明確にできてないことに尽きます。
何を書こうとしているのか、書きたいのかが作者自身が分かっていないと云うのでは・・自己弁解的には、書いて破り、破いて書いていたら少しづつ分かって来るさ。と云う理屈めいたものは用意してましたが、一歩も動けないままです。
この状況を破るために、ボクのチョウチョを追い続けたい。
こう思ったんです。
その一歩目として書いたブログです。
一歩目としたいです。
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(かがくのとも 2011年3月号) | ||
ちいさないきもの むし | ||
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折り込みふろく「かがくの友のとも」巻頭に作者のことばがあり、
得田之久さんが『青い蝶の幽霊』と題されて一文を寄せてもらっています。
得田さんは、昆虫の絵本作家として著名のかた。
(わたしは、読み聞かせに加えてもらって初めて識りました。したがって作品を読んだのもこれが初めてです。)
出版社の企画も5~6才向けの月刊誌「かがくのとも」。
文章から作者の虫に対する想いを汲み取ることは困難かもしれませんが、自然の一部として生きる「むし」たちへの慈しみの視線、、思いが伝わってきます。
この視線、思いの源泉は何なんだろう。
作者紹介の記事には、「昆虫少年として年少期を過ごし・・」とありますが、その事だけとは思えません。
それならば、チョウチョの名前もおぼつかなく、標本のたぐいに恐怖した私に「雨の日のチョウチョ」が書けようはなくなってしまいます(笑)。
『青い蝶の幽霊』
この表題にすべてが込められているように感じました。
直截的には、自然に対抗するがごときニンゲンの驕りに対する反発、反省が原点にあるように思えました。
それと、けっして忘れてはいけないと自分ご自身に問い詰めるモノを内在させている緊張感のようなものを感じることが出来ました。
締めの文章だけ転記させてもらいます。
でも、あの時雑沓の中で青い蝶に気がついたのは、僕と見知らぬ一人の少年だけでした。
==☂
「みさし
雨の日のチョウチョは、葉かげで雨のあがるのをまつんだ。上がるまで待つんだ。」
チョウタの声が届いたように思う。
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